読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

サバイバルのためのSecond Opinionとして利用される海外メディア

危機が「いま、そこにある Clear and Present」状態の中で、ものごとが収束したあとに、どのように本質的に考えるべきかを指摘することはそれほど容易ではない。それどころじゃないという挙国一致的大声にかき消されてしまう可能性が大きいからだ。

ただ、一つだけ、近い将来、今回の危機を振り返る場合に重要な論点になると思われるのは、自国政府、規制当局、大企業の情報開示の姿勢への信頼性の問題だ。

今回の原発事故に対する政府、規制当局、東電の開示と海外メディアの対応を見ていて既視感を感じた。

どこかで見たことがある。おそらく世の中的にはなんども繰り返されているパターンなのだろうが、個人的な記憶だ。

90年代半ばの日本の大手銀行の不良資産についての、海外資本市場や、海外メディア向けの開示の風景が浮かんだ。

邦銀はなんども不良資産問題は峠を超えたと言いながら、次の決算報告では、その内容が変化していき、結局、資本市場の信頼を回復できず、長い景気低迷の原因を作り出した。そして数十年が失われた。

危機的状況で、外部の信頼を獲得するということは、そんなに簡単なことではない。それはわかる。

邦銀の不良資産問題どころじゃない、今回の巨大な危機の中で、またぞろ、この信頼性の問題が生じた。しかも今回は深刻だ。

前回は海外メディアがどう言おうと、とりあえず、国内メディアと政府の発表に、従順に(現実的?)従った日本国民が、今回は、その信ぴょう性に疑問を呈しているのである。

当時と今の大きな違いは、インターネットの存在だ。

ぼくたちの外国メディアの情報へのアクセス可能性は飛躍的に拡大した。

日本の政官財と既存メディアは、まだこの技術のもたらした既存システムに対する破壊的要素を十分に理解できていない。

小澤問題において、瞬間的に「記者クラブ」に代表される、日本のLegacy systemの問題が顕在化しそうになった。しかし、ある意味、これも、普通の国民にとっては「背に腹は変えられない」的な問題ではなかった。なりふりかまわぬLegacy Systemの弥縫策に、日本国民の現実意識が妥協を行った。しかしこの過程で地方と中央の間の切断線の問題が沖縄問題を経由して、表面化したことは、今回の変化を考える上でも重要だ。

いったん収束しかかった不信感ではあるが、今回は、「背に腹は変えられない」どころではない、生存リスクの発生によって、個々の国民の切実さが高まった。

切実なサバイバルリスクを個人的に感じた国民が、日本の政官財の情報開示に対して不信感を持ってしまったというのは、実は、かなり革命的な事実だ。

「こいつらに任せておくと生活どころか、生命も危ない」という危機感を持ったのだ。(少なくともぼくはそう感じた。)

これはとても深刻かつ重大な変化だ。この国に対してこのことが及ぼす本当の衝撃は今のぼくにはまだ想像し得ない。

危機状況で完璧を求めるのはフェアではない。ただし、危機状況において、情報発信者に対して完璧じゃないとしても「一定の信頼」がなければ間違いなくパニックが引き起こされる。このことを自分も含めた多くの国民が肌で感じたのだ。

海外メディアや、外国大使館の国内自国民へのメッセージをじっくりと読んでいる。理由は、自分及び自分の家族のサバイバルを考える上で、「一定以上の信頼」を自国政府とマスメディアに対して持てなかったからである。

その意味では、ぼくは、Second Opinionとしての海外メディアを自分のサバイバルのために必要と感じたのだ。

海外メディアも別に完璧なわけではない。彼らもまた第三者専門家の意見に依拠しているという意味では、日本のメディアと構造的には変わらない。彼らの意見もまた素人的に増幅される可能性がある。しかし彼らは、ソースを開示しているので、ぼくたちは自分自身でそのオリジナルな発言を辿ることができる。

日本のメディアでは、海外メディアの発言の一部だけを恣意的につまんで、ソースも明確にしないことも多い。今回、その問題を一番強く感じた。
新聞が海外メディアの一部を元の文脈から無関係に取り出し、不安を煽る効果の高い部分だけをヘッドライン的に記事にし、それを、ツイッターなどのメディアが増幅するということが始終起こっていた。

いろいろなことの中で、今、ぼくにとって一番大切なのは自分たちのサバイバルを困難にするパニックが誤情報によって引き起こされることを回避することだ。

その目的のためにはオリジナルとの乖離がどこにあるのかをじっくりと検証することが当面自分にできる一番意味のある行為だと思っている。

今回の放射能パニックの中で、東京の住民として、自分や家族のサバイバルを考える際に、依拠するSecond Opinionとして依拠したのが、英国大使館の日本に居住する自国民へのアドバイスだった。

インターネットの時代に、自国民にだけ情報を提供するということは難しい。

イギリス国民を主眼としたメッセージを英語で出しても、日本人にも読まれてしまうという経験はおそらく過去英国政府にもなかったはずだ。そのため多くの本音があらわれ、それが予想せぬ再帰的フィードバックを日本社会に与え、彼らもそれに対する対応に追われた。

まさに今の瞬間に、インターネット時代に海外における危機管理の新しいケースが生成しているのだ。

しかも日本人は、First Opinionである自国政府及び関係当局、東京電力の開示に不信感を高めていたので、その再帰性は極めて強度だった。

その具体例が、英国大使館の自国民に対する勧告である。彼らが、退避圏を日本政府の20km、30kmから米国政府の80kmへと変更し、東京の自国民に対しても、東京からの「避難の検討要」(consider leaving)という風に変更したのである。

ツイッターやウェブの世界で、注目されていたこの情報が、不適切な形で既存メディアに「つままれて」報道されることで、関東圏東の住民に一種のパニックを引き起こした。

外国人は皆、国外脱出に殺到している。西日本へ向かう電車も飛行機も満員である等々。

これに対応して、昨日の夕方、英国大使館と英国政府の科学顧問が状況のアップデートを行い、それをBCCJ(英国商工会議所)のウェブサイトに掲載された。その内容は前のブログで翻訳している。

本質的には、東京に対する放射能リスクは限りなく低いということを強調している。

むしろショックだったのは、質疑応答の中では、既に対象地域だけでなく、Fukushimaという名称が立入禁止圏と同義で使われ始めているという事実だった。

当然文脈の中では、福島の避難地域(evacuation zone)を意味して、外国人によってFukushimaと利用されているのだが、日常の用法の中で、避難地域がどんどんFukushima全体に拡大してしまっている。

日本政府が20から30kmと言っている中で、英米政府が、自国民に対して80kmと宣言しているという状況が生じている。

たしかに今回のブリーフィングでも、言葉は選んでいる。しかし、あくまでも関東圏に住む自国民に対する安全性を強調されていて、それ以外の地域、とりわけ福島県の人々に対する(日本的)配慮は当然ながらなされていない。

しかしこの過程で、東京に住んでいる自分の安心感と、福島に住む人々の安心感の間には明確な切断線があるという事実に否応なく気づかされた。これが、もっとも深刻な事実だろう。共同性についての旧システムの提示していた共同幻想が、沖縄、福島とどんどん崩壊している。

ぼくたちはおそらくこの切断線を直視することからしか、新しい共同性というものを回復できないはずだ。