21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

フレドリック・ジェイムソンを読む

モバイルな生活の特徴は、公私混同が容易なことだ。社会生活と、自分が生きている喜びを得るための個人的行為をうまく配合することができるようになる。具体的にはカフェで、仕事用のEメールを、ジャズを聞きながら、送信した後に、次のミーティングまでの間は、カフェラテでも飲みながら、自分の個人的関心に30分使うことができるということだ。個人的関心は週末まで据え置く必要がなくなる。ただその裏返しで、土日も深夜にも仕事が割り込んでくるのも理の当然だ。

かくして日常の中に遍在するようになった個人的時間に、自分が本当に読みたいものは何かということを真剣に考えるようになった。

世の中の根本とはそもそも何かを解明しようとしているものに興味がある。

子供のころ,世の中はどうなっているのかを素朴に知りたかった。しかし、大人になる過程で、世の中の仕組みを理解するということは、いつのまにか、世の中についてのさまざまな約束事を受け入れてくる過程に変質していった。一種の判断停止をすることが、「大人になる」ということを学習していったとも言える。

そんなこともあって、学生の頃に、わからないながらに真剣に読んだ社会哲学のようなものをじっくりと読んでみたくなった。英語圏の中で、希少性の高いマルクス主義批評の大家であるフレドリック・ジェイムソンもそんな思想家の一人だ。昔神保町の北沢書店で買ったSignatures of The Visible(視覚の中の署名)(1992年)というペーパバックの裏表紙を読んで見た。

フレドリック・ジェイムソンは言う。視覚的なものは本質的にポルノグラフィーだ。映画は我々に、世界を裸体のように凝視せよと訴えかけている。この中で、米国のもっとも影響力のある批評家であるジェイムソンが、銀幕上の想像の世界とそれに投影される歴史的世界の関係性を深く思考することを通じて、映画とその文化を深く分析している。

ジェイムソンはさらに問いかける。ポストモダンの世界において、映画は社会的現実を探求するための支配的な道具として小説を代替することはできるのだろうか。歴史は、その内容によってではなく、形式自体を通じて伝達されるのだと、彼は論じる。この本の中で、ジェイムソンは文化批評と社会生活分析のための道具としての映画の力を説明している。

この批評集の最初を飾るのが、評価の高い「大衆文化における物神化とユートピア」である。ジェイムソンは我々の商品化された文化における映画の批判的―ユートピア的可能性について問いかける。我々の文化においては、価値や欲望をめぐる競争が行われており、視覚的な領域においても権力の存在が大きくなっていくのである。彼は、「ディーバ」「シャイニング」「狼たちの午後」などのような映画やSyberberg、ヒッチコックなどの作品の中に政治、階級、象徴、魔術的リアリズム、歴史性を読みとっている。ジェイムソンはさらにリアリズム、モダニズム、ポストモダニズム弁証法を特に映画に関連づけて考察し、映画的現象をその他の文化的、文学的伝統や展開に関連づけている。

このオリジナリティが高く、挑発的な映画、文化批評の中で、フレドリック・ジェイムソンは視覚的なものを考えるための唯一の方法は、その歴史的な成り立ちを把握することであると論じている。」

裏表紙を読むだけで、ぞくぞくする。実際、この本を買った時も、同じくぞくぞくした。ところが勇んで読み出したら、内容の難解さに放り出してしまったという記憶がある。ジェイムソンによる映画論。ふたたび読みだす前に、いまどきの下調べというわけで、グーグルで検索してみたら面白いサイトが見つかった。

http://prelectur.stanford.edu/lecturers/jameson/

スタンフォード大学のウェブサイトで、さまざまな思想家を顕彰した講演の内容を集めたものだ。その中に、フレドリック・ジェイムソンの仕事について、William McPheronという学者がまとめている。

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過去30年以上に及んで、フレドリック・ジェイムソンは西洋文化と政治経済の関係について豊かなニュアンスを持った視点を提供してきた。芸術と、その起源及びそれが受容されていく歴史的環境の間のつながりを強調することで、ジェイムソンは芸術がリアリズムからモダニズムを経てポストモダニズムへと、様式的、イデオロギー的に移行する道筋を明らかにし、この一連の流れが、資本主義から重商主義、産業主義を経て、後期の独占やグローバル、投機的段階へと連続的に変容していく過程と対応していると論じている。彼の議論の主要な前提は、文化的作品は、その属する歴史環境を曖昧に表象しており、歴史環境の孕んでいる具体的な社会矛盾を、文化が様々な形で歪め、抑圧し、美の形式の抽象化を通じて変容させているという考え方である。批評の主たる責任というものは、ヒューマニストが通常前提とするような、作品の美的性質に対する我々の評価の精度を高めることにはなく、作品の持つ政治、経済的条件の根源を暴き、これらの根源がどのようにまたなぜ隠蔽されてきたのかを説明することである。

ジェイムソン自身も属している学界というものが美学を政治や経済から通常切り離してきたという点から見ても、彼の業績は一層傑出した意味を持つことになる。彼は、1934年にクリーブランドで生まれ、1954年にハーバード大学を卒業し、1960年にイェール大学で博士号を取得した。彼の最初の本「サルトル:スタイルの起源(1961年)」は英米の大学を長く支配してきた「経験主義と論理実証主義」を否定した。ジェイムソンは自ら「英米哲学」の破綻を暴きだし、サルトル実存主義に基づく全く異なる政治的インテリ像を提示した。

1960年代はじめの時期に、ジェイムソンの関心はより広範なマルクス理論の哲学者たちへと移行した。この移行過程で、生まれたのが彼の二冊目の著作である「マルクス主義と形式」(1971年)だ。この本の中で、西洋マルクス主義の主要な思想家たちに対する先駆的な分析がなされた。ジョルジュ・ルカーチエルンスト・ブロッホ、影響力の大きいフランクフルト学派アドルノ、ウォルター・ベンヤミン、マルクーゼ、そして最後に後期サルトルの方法論と弁証法的理性批判を取り上げている。この本が最初出版された頃には、英語圏の読者のほとんどにとってこれらの名前は知られていなかった。また弁証法的思考も英米経験主義に反するものだったのである。実際、自己反省的で、意図的に反体系的で、厳密な意味で、反形而上学的で、仮借なく、全体化への志向性を有する弁証法的批評がジェイムソンの本によって出現し、英語圏の学界に蔓延していた人道主義的思考へのラジカルな選択肢を提供した。

マルクス主義と形式」ではマルクス主義を批判的思考の一つの方法と捉えたジェイムソンは「政治的無意識」(1981年)で、これを、必然の桎梏から自由を取り戻す人間性の闘争についての偉大な集団の物語という点に焦点をあてた。

これに先立って彼は初期の著作「言語の牢獄」(1972年)においてマルクス主義の主たるライバルを批判した。1950年代以降、人間の思考を支配してきたさまざまな反歴史的形式主義で批判。この中にはレヴィストロースの構造主義ロラン・バルト記号論、ミッシェル・フーコーのポスト構造主義ジャック・デリダ脱構築などが含まれている。これらに共通するのは、ソシュールが提起した言語の共時的パラダイムという考え方である。この言語学的モデルは、言語や知識を一時的な変化から抽出するので、根本的に思考の社会的経験との関連を歪め、人間をそれぞれの過去や未来から致命的なほど切りはなしてしまうというのが彼の主張だ。

ジェイムソンが1980年代のはじめに現代社会に焦点を集中しはじめたのはこういった歴史性の回復という精神に基づくものである。彼がこれに注ぎ込んだこのユートピア的衝動は、19世紀のリアリズムや20世紀初頭のモダニズムに対する彼の研究の中から形成されてきた。これらのスタイルは、経済、政治、文化的圏域が半自立的なままで、それぞれの間あるいは、その内部で心理的くさびのように矛盾を起こさせ、変化を想像し、反抗を主張することができる社会的空間を開放しつづけたのである。しかし20世紀の半ばに始まって、1970年代の初めにその形が結晶した、世界市場と投機的金融が資本主義の支配的形式となり、それ以前の産業主義及び独占的な段階を追放してしまった。この変化は物理的かつ人間的性質の事実上、完全な商品化を意味し、資本主義の論理が、社会的領域における近代性というものを崩壊させるまで貫徹したことを意味する。文化は経済になり、経済と政治は文化の多くの形態の中に変容しているのである。この領域の消失がポストモダニティの最初の兆しなのである。

ポストモダニズムあるいは後期資本主義の文化的論理」(1991)の中でジェイムソンは有名なポストモダニズムの定義づけをした。曰く、ポストモダニズムは多国籍あるいは金融資本主義の文化的表象である。同時代の芸術、建築、映画などの諸例を分析することによって、彼はここで、ポストモダニズムの主要な特徴を明らかにしている。これらの中には、個別の主体の消滅(その必然的帰結は、個人的感覚とスタイルの衰退。永遠の現在の中に過去と未来が融合する分裂的な意識の出現。歴史性の危機(集団としての人間の記録ノスタルジアという空虚なイメージへと還元されてしまう)パスティーシュ(模倣)のスタイル的な勝利(過去の文化をランダムに食い散らかし、元の文化の実態を表層的なシミュレーションへと加工してしまう)。ヒステリー的昇華の興隆(テクノロジーが、そうでなければ考えられなかったような網羅的で威嚇的な世界経済システムをイメージさせる)

その後の「後期マルクス主義(1990)」「視覚の中の署名(1990)」「地政学的美学(1992)」「時間の種子(1994)」「文化的転回(1998)」などの著作によってポストモダニティがめくるめく表層を持ち、蠱惑的で中毒性が高いが、深さがない世界であることを示している。ユートピア的志向が衰微しつづける絶望的な状況の中でも希望を感じさせるのが彼の魅力である。(以上)

今のところ、ジェイムソン自体より、ジェイムソン論の方が読みやすい。これはなべて哲学についてあてはまることかも知れない。しかし社会の仕組みというものがわかりやすいものでないとすれば、それに真剣に立ち向かう哲学の言葉は簡単になりえない。だとすれば、そのわかりにくさに内在して物事を考えることが不可欠なのだろう。

だからこそ、ジェイムソン論ではなく、ジェイムソンを読む必要があるのだ。そうでなければ、結局、自分の頭で世界を理解するのではなく、一つの約束事(理解の仕方)を無批判的に受け入れていることと同じになってしまう。