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デビッド・カークパトリック フェイスブック若き天才の野望

いまだに実名メディアは苦手である。完全に組織に属していないのならば、さほど気にはならないのだろうが、組織に属するということは、公と私という二つの(あるいはもっと多くの)アイデンティティを使い分けることを意味する。その公と私のつじつまの合わなさが、実名での露出を躊躇する理由だろう。

フェイスブックの創業者であるMark Zuckerbergは大学という公と私の区別の定かでない場所で事業を始めた。しかも、実名的な行動に相対的に違和感を持たないアメリカという社会であったことも大きい。

アメリカの大学という特殊な環境においてその事業が開始されたということが重要である。

カークパトリックという熟練した記者の目で緻密に描かれていくFacebookの成長物語の中で強く印象に残ったのは二つの点である。

第一に、Zuckerbergの、人々は一つのアイデンティティで社会に存在すべきであるという考えと、それに繋がる、人々はプライバシーをどんどん気にしなくなっていくということへの強い信念。

第二に、Facebookはすべてのコミュニケーションの中のOSのようなものにしていくという信念。API開放によって、今のFacebookよりもすぐれたインタフェースをもつソーシャルメディアが生れる可能性があり、それは、現状のFacebookのビジネスを破壊する可能性があるにもかかわらずである。

特にプライバシーに関して言えば、Facebookの原モデルとでもいうべき、アメリカの大学をモデルにしたモデルをあらゆる通信の理想として強引に拡大しようとしている方法は、いずれにせよ、さまざまな国で、修正バージョンを生み出していくことになる。特に、Facebookが閉じることを拒み、OS化すればするほどそうなっていく可能性は高い。

ただそれは、商用Facebookが日本向けにカスタマイズされるというような低レベルの話では面白くない。

コミュニケーションのOSを使って、日本人がいま、必要としはじめている中間集団の形成を自分たちで形成する際のモジュールとなっていくと、大きな社会的インパクトを持つようになるのだろう。

グーグルよりも、Facebookの活動が、自分のこととして気にかかるのはそのあたりにあるような気がする。

しかし、アメリカの大学のコミュニケーションモデルを理念形として強引にそれを世界に広げていくというFacebookは、まるで米国、まるで西欧文明のDNAそのままだ。

自らの論理で自らを否定することができるという西洋の論理のしぶとさが目の前で展開しているのを見るという意味でも、この本は必読である。