映画「グリーンゾーン」を観た
東京は眠らない。あまり夜遊びをしなくなったので、東京の週末の深夜を久々に見た。
六本木ヒルズの映画館で、たくさんの外国人たちにまじって、Paul Greengrass監督のグリーンゾーンを見た。イラク侵攻時を当時のブッシュ大統領が正当化するために使った大量破壊兵器の存在を探す、現場の軍曹が直面する政治の闇をめぐるスリラーだ。
この監督のもとで、限りなく自己抑制した演技(英語ではminimalist的とかいうらしい)が特色となった感のあるマット・デイモンが、魅力的だった。
ブッシュ政権のイラク侵攻を、偽報道で結果支援したとして集中砲火を浴びたニューヨークタイムスのJudith Millerのような女性ジャーナリストも登場する。(映画の中ではウォールストリートジャーナルの記者)
そのジャーナリストを偽情報で誘導する、悪者のインテリジェンスオフィサー。
彼と政治的に対立しながら、現地のイラク軍を解体せず、取引をすることで、イラクの治安と未来を構築しようとする、正義のCIA局員。
混乱するイラク側で、鍵を握る、元フセイン政権の軍事高官。複雑な錯綜する思いで、米軍曹の捜査を助けるイラク民間人。
ドキュメンタリーのように、荒々しく疾走するハンドカメラで撮影されたGreen Zoneは良質な政治スリラーだった。
社会的事実に基づいたエンタテインメントには、いつも、違和感がある。
エンタテインメントとしてそれを楽しむことへの後ろめたさのようなものだ。
まさに普天間で訓練されたヘリコプターが、イラクの荒々しい戦闘に使われているという事実。しかし、そんな違和感を持ちながらも、東京の深夜の夜遊びの一つとして消費する自分。
ブッシュ大統領が引き起こした愚行を、批判的に描くことで、この映画は一体どんな役割を果たすのだろう。つまりは、加害者である自分達を二分して、正義のアメリカに感情移入することで、自己のアイデンティを安定化させるというのが、このエンタテインメントの機能なのかも知れない。
映画の背後に存在する普天間というものと、日本人がこのエンタテインメントを享受するということの間には何が存在するのか。
ただ一つ明らかなことは、イラクの国民や、送り込まれた米国兵士にとっては、戦闘というものは、これほど漂白されたものじゃなかったということだけだ。