21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

「たかが車じゃん!」と言えないトヨタ

トヨタ公聴会を見たり、関連報道をずっと読んでいる。その中で感じたことがいくつかある。

最初に、トヨタ社長の内輪の激励会での涙を見て、米国で日本企業がビジネスを続けることのChallengeを今更ながらに感じた。

こういった問題が生じたときに、企業を最終的に守ってくれるのは、ある意味あたりまえなのだが、その国消費者と、その国にいる自社の従業員なのだ。

消費者は時に、もっとも恐ろしい敵になる。

しかし、安定した雇用を生み出しているとすれば、彼ら従業員は、自分のこととして、トヨタというブランドを守ろうとする。

アメリカの従業員は、彼の涙をどう解釈するのだろうか。彼らは別に、豊田社長に個人的なおもいいれがあって、100%支持するといったわけではない。今、危機に瀕しているのは、まさに自分達の生活なのだ。彼らが、豊田社長の思いが、「皆さんの生活を危機にさらして大変申し訳ない。全力で、トヨタという生活圏を死守するので、支援を頼む」という意味だと理解すれば、それなりの感情的な繋がりは保てるのかもしれない。

日本的に、殿、何があろうとも一緒ですという感覚でとらえるとすると、おそらく、かなりのギャップが生じるのだろう。

二番目に、Recallの対応の遅さだ。前にも、トヨタというのは完璧性を体現したブランドであり、アメリカの消費者は、自国の車には期待できぬ信頼性を、愛国心は少々犠牲にしながらも、トヨタに向けてきたと書いた。実は、この完璧性というのは、トヨタという企業自体も呪縛してしまっているのだろう。

Recallの報告が遅れたということは、まさに、この会社がRecallというものを恥としてとらえていることのあらわれなのかもしれない。

米国の自動車メーカーに対して、消費者も、おそらくメーカー自身も完璧などを求めない。「たかが車」という意識で、Recallはあたりまえのものと早めの報告、早めの日常処理を行うのだろう。ところが、「すべての車には私の名前がある」という完璧性の文化の中で、Recallは重く受け止められ、迅速な情報を伝達を妨げたのだろう。

とりわけ、この文化は、車の電子化という革命的変化の中では致命的になる可能性がある。車はどんどんソフトウェアの塊になっている。ソフトウェアと言えば皆さんご存知のように、バグの嵐だ。バグを前提のベータ版などを平気でユーザーに使わせる文化だ。たしかに、自動車は人間の生命にかかわるものだから、安易にとらえるべきではないのだろうが、構造的に、バグは発生する。

Recall=バグ取り的な日常感覚で、リスク対応を組み立てて置かないと、トヨタは危ないかもしれないと思った。

ものづくりとソフトウェアの文化の違いが、今回の問題の本質かもしれない。