21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

ツイッターは麻薬だ

ニューヨーカーのサイトを眺めていたら、Stop the WorldというGeorge Packerのコラムが掲載されていた。
http://www.newyorker.com/online/blogs/georgepacker/2010/01/stop-the-world.html
ブッシュ政権の頃に、廃刊されていた、Bafflerという雑誌が再出版されて、彼のところに郵送されてきたところから話は始まる。この雑誌は、anti-cool sort of coolを目指していたという。クールを気取らないクールさを売り物にしていたとでも訳せばいいんだろうか。

消費者資本主義に対する批判的視点が特徴だったという。The Bafflerタイプの文化批評が復活するには、ポスト経済危機の今は、完璧なタイミングだと彼は言う。

Bafflerの巻頭言はこんな風。
As the world careens one way we faithfully steer the other. Print is dead, they say; we double down in our commitment to the printed world. Brevity is the fashion; we bring you long-form cultural criticism with an emphasis on stylistic quality.

(世界が一方向に傾くならば、我々は誠実に、逆の方向に身を傾ける。人々は、印刷は死んだという。我々は印刷物の世界に対する自分の賭け金を二倍にする。簡潔さが流行だ。我々はスタイルの質を強調する長文の文化批評を皆さんに提供する。)

彼は、このへそ曲がりの編集方針に心から賛同を送る。でも、彼のコラムのテーマは、オールドファッションな雑誌の復刊を言祝ぐことではない。
彼のテーマは、ツイッター的世界にはうんざりということだ。ツイッターが大河であって、そこに必要なときにコップを差し入れて、中に入ったものを賞味すればいいと言われても、自分にとっては、そんな風には感じられないと嘆く。

Twitter sounds less like sipping than drowning.
ツイッターと聞くと、水を一口飲むというよりは、溺れているような気になる。)

彼が引用している大河の比喩はDavid Carrが使ったものだ。

David Carrの“Why Twitter Will Endure”でのユートピア的表現に触発されたコラム。
http://www.nytimes.com/2010/01/03/weekinreview/03carr.html

このコラムはたまたま前にブログで紹介したことがある。
http://d.hatena.ne.jp/trailblazing/20100106/1262755084

ツイッターを始めた頃はご多分にもれず、ツイッターの放送的性質を過大評価していた。でも、そのうち、ぼくはモーゼじゃないし、ツイッターもユーザーも、ぼくが何を考えるかなどはそんなに関心がないこともわかった。1年近くたって、ぼくは、このサービスの本当の価値は、相互接続した集合的な声を聞くことなのであることに気づいた。

ついこないだも、ぼくは、エール大学の会議に参加して、目の前の座席で参加者が皆、自分のラップトップを開いているのを眺めていた。ぼくのラップトップは閉じたまま。理由は、ぼくの代わりにWeb Crawlingしてくれているツイッター上のフォロワーたちのつぶやきを、ブラックベリー上で読んでいたからだ。

どこにいても、昔ほど、ぼくは、自分でウェブサーフしなくなっている。最初、ツイッターには圧倒された。でも、そのうち、ツイッターを常にデータが流れ続ける河のようなものだと思うようにした。そしてぼくは、時々、その河にコップを入れて、水をすくうのだ。ぼくが知りたいことのほとんどは、そのコップの中に入っている。アップルのタブレットキンドルの売上、医療改革についての上院での最終決議など、すべて、ぼくが知ったのはツイッターでだった。(David Carr)」

この中で一番心配なのは、普通の生活の退屈さや、いつもと変わらない日常のつらさから逃れたくない人間などいないということだとPackerは怯えたように続ける。

Twitter is crack for media addicts.
ツイッターはメディア中毒にとっての麻薬だ。)

きれいごとや、社会道徳を云々するつもりはない、ただ単に、自分はこの魔力から逃れる自信がないのだと叫ぶ。

ワシントンをカバーする政治ジャーナリストのGeorge Packerは、こういった心配からブラックベリーも、iPhoneもグーグルフォンも持たないしiPadを手に入れようとも思わない。ニューヨーク、ワシントン間の列車(アムトラック)の中では、電話をオフして、パソコンもしまい込み、なんとかして2時間の読書に没頭しようとする。

しかし、そんな彼も、政治ジャーナリストとしての仕事上、オフラインでいつづけることができない。
だから、ユニオンステーションに到着すると、ロビーのカフェに席を見つけて、パソコンを無線LANにつなぎ、Eメールをチェックする。
政治家のアポが土壇場でキャンセルされることが多く、その際、政治家たちは、ジャーナリストがブラックベリーを持っていることを想定しているからだ。

ネットに接続できない環境で、なんど、自宅に電話して妻に、Eメールの確認を頼んだことか。

さすがに、そんな彼も、最近、一種の戦慄とともに、ブラックベリーは不可欠と考えるようになった。リアルタイムにネット接続せずに、政治ジャーナリストとして、ワシントンをカバーするというのは、防弾チョッキや衛星電話なしに戦争報道をするようなものだ。これは仕事をしながら、正気を保つための一時的な妥協だと考えたい。でも、溺れているぼくを見たら助けの声をあげてほしいと、彼のユーモラスなコラムは終わる。(以上)


ツイッターという新しいメディアの創世記にいればこその、醍醐味というものがある。

敬愛する米国のコラムニスト、ジャーナリストたちの、比較的中年層から、インターネットに対する、個人的な不安というか疲労感のようなメッセージが出されはじめている。

Nicholas Carrの新著はThe Shallows(インターネットが私たちの脳に与えた影響)だ。前に、長い論文を読めなくなってきているというような不安をコラムに書いていた。

自分のことに限っても、6ヶ月近くツイッターを使ってきて、フォローする数が増えてくると、いくらリストを作ってみても、それをすべて追いかけることなどできないことがわかってくる。特にPCでしかツイッターをしない僕の場合は、物理的なめんどくささがどこかでストッパーになっている。David Carrのように、河だと思うことにしている。そして、あけたときに流れを眺めながら、その場限りの、Tweetを流してやることにしている。

これは、ある意味、単なる素人だからこそ可能ないい加減さなのかもしれない。プロのジャーナリストや物書きの人々は、おそらく、こういったデジタルな切れ目のない情報に溺れる不安と快楽の狭間を生き続けているのだ。

素人の良さというものもある。