21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

読者から見た日本メディアの海外報道

第二次世界大戦後、日本に世界戦略はなく、常に対米従属であったという裸の現実を直視することからしか、日本という国の独自性は始まらないと、ぼくは孫崎享さんの提言を受け取った。ところが、米国の戦略に追随するということだけでも、そんなに簡単ではない。特に、それが、さまざまな事情で急変するからだ。とりわけ、米国の外交政策は、必ずしも、外向きではない米国国民の世論というものに深く依存している。そのため、謀略というものによって、民意を一気に固めるという力が働くことになるというのが孫崎さんの説明だった。

その意味では、日本の外交が独自性を獲得するためにも、まず、追随すべき、米国の戦略とは何かを、正確に追いかける努力をしなければならない。それは米国メディアを代表とする、海外メディアによって報じられる政府の発言及び識者コメント、それに対する報道の仕方を、地道に追いかける作業が必要だ。

海外報道における、日本の既存メディアの不十分さは、彼らが引用するソースを読者が自ら確かめられるというインターネット環境の中で徐々に明らかになっている。

これは、そんなに不思議なことではない。

既存メディアの社員である記者という人々の絶対数は、米国におけるジャーナリストと比べて、圧倒的に数が限られているはずだ。そして、一人の人間が、追いかけられるトピックにも当然数に限りがある。

それを絞り込めば絞り込むほど、その分析は鋭くなる。しかしそれと反対に、既存メディアが限られた社員だけで、しかも、広いトピックを網羅的にカバーしていくとすれば、当然ながら、一つ一つの分析は薄くならざるを得ない。個別の論点では、多くの非メディアの普通の人々が、海外のメディアを含めて、地道に読み込んでいる場合も多い。インターネットによってこのあたりの情報格差がもっとも無くなっているのが、海外報道の分野だ。

当然、既存メディアの中にも、素晴らしいジャーナリストはいる。海外報道でも、独自で、直接の取材力を持つ人々もいる。ただし、海外報道の分野で、日本にとって重要なのは、そういった例外的なジャーナリストではないように思う。

むしろ、トピックごとに、世界で傑出したジャーナリストを特定して、その報道を地道に追い続け、それを、日本的視点から読み直していくというタイプの報道人の数が、海外報道においてはより多い方がいいのではないだろうか。

自分の記事のストーリーがまずあって、それに、海外報道の部分を切り貼りしていくというタイプの報道がたまに見受けられるが、このような記事は百害あって一利なしである。ただこういったことが生じるのは、モラルの問題というよりは、数が限られた社員記者で、紙面を埋めていかざるを得ないという現在の日本の新聞のビジネスモデルの問題だと思う。だとすれば、現状を前提にしても、人員のポートフォリオの構成を変えることで対応できるような気がする。

クーリエ・ジャポンという雑誌は、そういった工夫の一つだ。

海外報道に関しては、日本の新聞は速報性よりも分析の方向に舵をとる方が経営的にも正しいのではないだろうか。