21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

小田嶋隆のツイッター論

小田嶋隆さんのツイッター論は深くて、心配性のぼくには、ずっしりと思い手応えを残した。「伝書鳩は誰のメッセージをつぶやくのだろう」このURLをクリックして本文読んでくださいで本来おしまいだと思うのだが、あまりに怖かったので、自分でおさらいしてみたくなった。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100108/212075/
論旨をかいつまんでみると、以下のようになる。

『インターネットを探索している人々は、世界の外部に向かって手を広げているつもりでいる。が、その実、彼は、自分の内面を掘り進んでいる。

ツイッターについてもおおむね似た事情がある。いや、ツイッターの構造はさらに入り組んでいる。私のツイッターは、あなたのツイッターと同じにはなりようがない。

というのも、ツイッターは、特定の共有された「場所」ではなく、むしろ特定の関係を特定の立場から見る場合の「視点」に近いものだからだ。

ということはつまり、「あえて見ることに決めた、以外の世界は見えない」というのが、初期設定になっているわけだ。

竹の節から覗いた世界。
あるいは井戸の底から眺めた空みたいなものだろうか。』

たしかに、自分の目の前で展開されているものが、誰か第三者によって囲われた輪郭ではなくて、まさに、自分の物の見方そのものである、自分の内面を眺めているのと同じだという洞察は、なんとなく、もぞもぞと言語化できなかったものを一度に明らかにしてくれた。

そして、ツイッターが以前のウェブサービスを一気に駆逐するように成長している背景にあるものを、次のように分析していく。

『ウェブ上のコミュニケーションは、初期の無防備で自由な雑踏の関係から、時代を追って断片的で用心深い、密室を結ぶ糸電話みたいなものに重心を移してきている。

ともあれ、ウェブ上のコミュニケーションは、形を変えつつある。良い方向になのか、悪い方向になのかは、わからない。が、とにかく、それはいつも動いていて、結局のところつかみどころがない。やっかいなことだ。

現状、ツイッターは、作り手が想定したルールの範囲内で機能している。が、この先、新しい利用法を考え出した人間が違った使い方をはじめると、ゲームそのものの性質が変わる。と、プレーヤーの顔ぶれも違ったものになる。

これは、開かれたコミュニケーションの宿命みたいなものだ。』

3年ほど前には、魅力的だったミクシィが、集まる人数が増えたため、必然的に汚れているという現実を、絶妙の比喩で小田嶋さんは指摘する。

『口うるさい常連がとぐろを巻いている場末のスナックみたいな具合に。』

そもそもバーチャルはリアルな社会と分離して独自のものとして屹立することはありえないのだと彼は続ける。

『つまり、「個」としての独立した判断力を備えた「個人」が、「契約」によって結ばれた全体と対峙して在るという意味での「社会」は、たぶん、リアルであれバーチャルであれ、われわれの国には存在しない。』

リアルな世間が嫌いでバーチャルに逃げたら、世間はそこにまで追いかけてきたということだ。ネットコミュニティの『場末のスナック化』に対する究極の回答が、立ち話のようなツイッターだというのが小田嶋隆の見立てである

しかし、彼は言う。そして実名でツイッター世界を闊歩する人々に対して少々斜めな視線を向けながら、彼はこう呟くのだ。

『でも、甘い気がする。
日本の世間力を舐めてはいけない。 』

怖がりな僕は、また、ちょっと背筋が寒くなってしまった。やっぱりほどほどにしておこうかな。