21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

贈る言葉としてのミドルメディア

内田樹さんが、ブログで、今後のメディアのことを語っていて、とても面白い。

昔は、内田さんのブログをまずチェックするところから朝が始まった。

彼の出版された本はすべて買っているし、ほとんど読んでいる。すべてとほとんどの差分は、彼のレヴィナスの翻訳書だ。買ってはいるが、レヴィナス師匠の書物をすべて読みきれてはいない。

最近は、グーグルリーダーに登録して、それでチェックと考えたが、よく考えると、グーグルリーダーが一番役に立つのは、iPhoneのような形で、PC以外の端末でウェブをチェックする時のようであって、スマートフォンを持たず、モバイルPCでしか、チェックしない自分にとっては、内田さんのウェブをチェックすることと、グーグルリーダーをチェックすることに本質的なコスト削減的な要素はない。

今日は、実は、佐々木俊尚さんのTweetでこのブログのアップデートのことを知った。今回の内田さんのブログは、佐々木さんの「2010年新聞・テレビ消滅」で語られるメディアの未来仮説をもとにして、内田さんの既存メディア観を語るものだったからだ。

ぼくが、どのように、ウェブ上の動きを知ったかということを見るだけで、現在のウェブ世界の動向がわかるような気もする。

ところで、内田さんの論考だが、
http://blog.tatsuru.com/2010/01/10_1144.php
マスメディアが、自分たちの危機を言語化できていないあたりから、論をはじめている。

『マスメディアが「おのれの知的不調を勘定に入れることができない」まま推移するのであれば、その命脈が尽きるのは想像するより早いと思う。』というコメントは、上杉隆さんが孤軍奮闘している記者クラブ利権のことを想起するだけで、思い半ばに過ぎるようだ。
既存マスメディア批判などというところに、文明史観的な発想の内田さんの主眼はない。

ただ、そのあたり批評性が面白いというよりは、メディアというものと、資本主義化の社会変動を結びつけて語るあたりが、思いつきかも知れないが、例によって面白い。

今後は、ミドルメディアすなわち「特定の企業や業界、特定の分野、特定の趣味の人たちなど、数千人から数十万人の規模の特定層に向けて発信される情報」(佐々木俊尚)が、今後の情報流通の中心になるという仮説に対して、

「マスで製造されたものがパーソナルに消費されるという経済構造そのものが共同体の解体と個の原子化という現況を結果したのである。それに対する補正の動きが、「中間的なメディアによって結ばれる、中間的な共同体」であることは、理の当然である。」
と言う。

つまり、ミドルメディアの勃興というのは、こうした、資本主義によって解体され、アノミーに対して呻吟する社会からの反作用であるという意味で、ある種の必然性というか高い蓋然性を持つことになる。

さて、こういったミドルメディアの収益性はどうなるのかという疑問に対しては、

そして、中間共同体の「中間性」は、まさしくそれがビジネスオリエンテッドではないとところに、その特性があるのだと続ける。

『中間共同体の共同性は「うまく立ち回ったもの」に傾斜的に利益が配分され、「しくじったもの」が損をこうむるためのものではなく、そこに蓄積されたリソースがメンバーたちにフェアに分配されるための共同性である。だから、ミドルメディアは本質的に「反資本主義的」なものたらざるを得ないだろうと私は思う。』

そういう意味で、ミドルメディアを通じて、コンテンツを提供するもののインセンティブに対する思考の中で、

『コンテンツの質を最終的に担保するのは、コンテンツ作成者の「受信者の知性と批評性」に対する敬意と信頼だと私は思う。それは言い換えると、情報コンテンツは本質的には「商品」ではなく「贈与」だということである。』

と、贈与という観点は再び持ち出すことになる。

多分、ミドルメディアを構成する、個別のコンテンツプロバイダー(自分も含む)のインセンティブとしては、自分以外の誰かに何かを贈りたいという気持ちが中心となるのだろうという、内田さんの論点は、実に腑に落ちるものなのである。