21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

David Carr「ツイッターは永遠だ」

ニューヨークタイムスのDavid Carrが、ツイッターはなぜ持続するのかという、コラムを書いていると、去年の6月にタイムのカバーストーリーで、ツイッターのことを書いたSteven Johnsonがつぶやいていた。自分が引用されていることに驚いたというつぶやきだった。David Carrは、52歳のジャーナリストがどうしてツイッターにはまったかを説明している。

http://www.nytimes.com/2010/01/03/weekinreview/03carr.html

2009年3月に、テキサスで行われたコンファレンスで、ツイッターを使おうという気になったとCarrはコラムをはじめている。その頃既に、フェイスブック、大量のEメール、RSSフィードなどであっぷあっぷだった彼は、ツイッター(さえずり)なんていう妙な古臭い名前の新しいウェブサービスなんて使おうという気にもならなかった。

名前からして、ツイッター(さえずり)なんていう、古臭い名前、どうでもいいようなサービスの印象が大、しかも、140文字で何が伝えられるというのか。

ところが、彼が参加した、このコンファレンスでは、既に、ツイッターが主要なニュースプラットフォームになっていたのだ。

会議自体へのコメントも、別の場所で起こっている重要なニュースアップデートが続々と自分のタイムラインに現れてくる。結局、一部は、職業上の必要性もあって、Carrはツイッターの軍門に下ることになった。

使いはじめて、一年余り、じっくりと物事を考える能力の低下はちょっと心配になるものの、スタバでコーヒーを飲みながらでも、新しいニュースやそれへの人々の反応を目撃できるツイッターは、彼にとってなくてはならないものになった。まさにツイッターの時代がやってきたのだ。

これはぼくだけの考えじゃないと、Carrは、Steven Johnsonのツイッターについてのコラムを引用している。

“The history of the Internet suggests that there have been cool Web sites that go in and out of fashion and then there have been open standards that become plumbing.Twitter is looking more and more like plumbing, and plumbing is eternal.”

「インターネットの歴史が示すように、多くのクールなウェブサイトの人気が高まったり、忘れ去られたりし続けている。でも、オープンスタンダードがそういったすべてを支える配管工事のようなものになった。ツイッターは、そのオープン性により、どんどん配管工事のようになっている。そして配管工事は永遠なのだ。」

本当だろうか。本当に、この短い、ブツ切れのコミュニケーションが何かの役に立つというのか。

ただ、誰とコミュニケーションし、誰をフォローするかが重要なのだ。ツイッターでは、登録した人は他の誰でもフォローができる。しかも、互恵的な義務など一切発生しない。

しかし、じっくりと、フォローした人の発言を追って行くと、ツイッターによって、個別分野での本当に賢い人達からリアルタイムで重要な情報を得続けることができるのだ。そして、こんな人たちのつぶやきには、びっくりするほど有用で、タイムリーな情報へのリンクが満載されている。

ツイッターへのよくある批判は、ある意味想定の範囲内のものだ。

「誰かが今ドーナツを食ってるかどうか、なんて知りたくもない」 

しかし、ドーナツを食べてるのが、最先端の分野で活動しているトッププレイヤーだったらどうだろうか。さらにこのサービスは、ジャーナリストにとっては明らかに有用である。しかし、どんな仕事をしていたとしても、自分の業界のリーダーたちが何を読んで、なにを考えているかを知ることができるとしたらどうだろうか。

さらに、特定の個人をフォローするだけじゃなくて、ツイッターは、自分の関心のある分野や、話題の領域を、ハッシュタグ”を利用することで追いかけることができるのだ。#physics, #Avatarというような感じ。

さらにツイッターではメッセージ発信することの、コストは極めて低い。タイプライターをちょっと叩いて、送信ボタンを押すだけだ。あなたのメッセージを誰かが待ち構えていることさえ忘れてしまいそうなほど摩擦がない。

ツイッターを始めた頃はご多分にもれず、ツイッターの放送的性質を過大評価していた。でも、そのうち、ぼくはモーゼじゃないし、ツイッターもユーザーも、ぼくが何を考えるかなどはそんなに関心がないこともわかった。1年近くたって、ぼくは、このサービスの本当の価値は、相互接続した集合的な声を聞くことなのであることに気づいた。

ついこないだも、ぼくは、エール大学の会議に参加して、目の前の座席で参加者が皆、自分のラップトップを開いているのを眺めていた。ぼくのラップトップは閉じたまま。理由は、ぼくの代わりにWeb Crawlingしてくれているツイッター上のフォロワーたちのつぶやきを、ブラックベリー上で読んでいたからだ。

どこにいても、昔ほど、ぼくは、自分でウェブサーフしなくなっている。最初、ツイッターには圧倒された。でも、そのうち、ツイッターを常にデータが流れ続ける河のようなものだと思うようにした。そしてぼくは、時々、その河にコップを入れて、水をすくうのだ。ぼくが知りたいことのほとんどは、そのコップの中に入っている。アップルのタブレットキンドルの売上、医療改革についての上院での最終決議など、すべて、ぼくが知ったのはツイッターでだった。

テキストメッセージに対するかなりの制約こそが、逆に、大きな可能性を秘めている。ツイッター上のベストな人々は、リンク、ハッシュタグ、コメントなどを最大限活用しながら、言葉を節約し、正確にメッセージを伝え合っている。他のプラットフォームでは、知り合いの存在というのは必ずしも愉快なだけのものではなかったが、ツイッターの制約の中では俄然、興味深いものに変わった。

ツイッターは、驚くほど、それぞれのニーズに対応してカスタム化可能である。さらに、フェイスブックには存在する、社交面での双方の期待というようなものがほとんどない。さらに、ツイッター空間は、誰をフォローするかで全く様変わりするし、他のウェブサービスに比べても、かなりマナーが保たれている。自分の発言に対して向けられているように思われる批判も、掲示板のようなものとは違って、あなた自身に対する反応というよりは、あなたの発言を契機として、自分のフォロワーに対して反応しているといった方が正確である。アラシ(Troll)的行為はすぐに鎮まってしまう。

ソーシャルメディアに関する新しい本を書いたClay Shirkyによれば、ツイッターアルゴリズム的権威(algorithmic authority)と呼ぶことができるような重要なことを明らかにしてくれるという。アルゴリズム的権威とは、平たく言えば、あらゆるタイプの人が同時期に同じことを指摘している場合には、かなり大きなことが起こっているのだという意味だ。

と、David Carrは、ツイッターなしではいられない状態を楽しそうに報告している。

followerは自分のために、Web crawlingしてくれるエージェントのようなものという見方など、なるほどと思わされるコメントがあった。