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本田由紀 「教育の職業的意義;若者、学校、社会をつなぐ」を読む

この本は、真面目な怒りと、何かしなければならないという気持ちが充満している本だ。この人の本は初めて読んだが、とにかく真面目な人だと思った。そして、その真面目さは、いつも、対立につながっているのかもしれない。

出だしから、「あらかじめの反論」だ。「教育の職業的意義」が、いかに、右からも左からも、上からも下からも、攻撃されやすい論点かを示しているのだろう。

彼女の問題意識は先鋭だ。過去数十年間、日本の若者たちが「働くことの受難」にさらされてきたことへの危機感だ。そして、それが抽象的で、言われのない自己責任論によって放置されてきていることへの義憤だ。

1990年代初頭バブル崩壊までは、日本の若者たち(ぼくもこの世代に属している)、特に新規学卒者は労働市場においては世界に類例のない恵まれた状況にあった。「新規学卒一括採用」というシステムが機能していたからである。大学卒は、正社員になり、終身雇用を享受するという「常識」をお大多数の者が共有していた。たしかに、昨今のぼくたちの子どもたちの世代の就活を見るにつけ、自分には就活などなかったということを今更ながらに驚いている。一定の大学を卒業したものには、より好みをしない限り、選別されるなどという意識を持つ必要はなかったはずだ。

「しかし、そのような従来の「常識」は、もはや通用しなくなっている。教育機関を出たあとに、企業の正規メンバーとして受け入れられない若者が、膨大に出現するようになっているのだ。そうした非正規社員の若者の苦境についてはすでに多くの指摘があるが、あらためてまとめれば、彼らは①容易に雇用を打ち切られることが多く、②賃金が正社員よりも顕著に低く、③一度非正社員や無業になるとその後に安定的で将来性のある仕事に就くチャンスが限られ、④さらに教育訓練や社会保険、安全管理や福利厚生といったさまざまな面でも正社員と比べてはるかに悪条件に甘んじざるをえない上に、⑤「世間」から軽蔑的な視線を注がれがちである。」

1960年代から80年代にかけて存在した「常識」が極めて稀なものであったということを本田はアメリカの社会学者メアリー・C・プリントンなど外部の視線を援用しながら確認していく。そして、その「常識」がこの時期、日本に存在したより大きなシステムの現れであったことを明らかにする。

「戦後の経済復興や社会の民主化・平等化が高校進学率を急速に押し上げたという「教育現実」が、労働力需要と企業内定着化の必要性の増大という現実と相まって、「日本的雇用」という「労働力実態」を生み出し、さらに続いて「労働力実態」が一元的能力主義の支配および職業的意義の喪失という「教育現実」を確立し、経済環境がそれをいっそう促進するといったように、教育と労働との循環的な相互規定関係が、政策的意図をも裏切る形で、六十年代以降の日本社会を形作っていったのである。」

これを本田は、教育、仕事、家庭が緊密に関連しながら循環しつづける「戦後日本型循環モデル」と呼び、その特殊性を指摘する。

こういった特殊な前提のもとで、就職ではなく就社と呼ばれる、個別専門性の軽視と、それに伴なう、教育の職業的意義が失われたのである。現在まで変わらない文部科学省のキャリア教育に代表される、雇用市場の現在と大きな乖離のある抽象的戯言の起源はこのあたりにあるらしい。既に失われた前提のもとでしか成り立たないような薄い言葉が飛び交っている。

こういったシステムで育てられた若者たちは、職業というものへの意識希薄なままに生活し、就職という場で初めて過酷で、グローバルな現実に直面しているのだ。

本田は、こういった浮ついた官製のスローガンに代わって、若者たちに役に立つメッセージを送るべきだと主張する。

「少なくとも高校以上の教育段階においては、特定の専門領域にひとまず範囲を区切った知識や技術の体系的な教育と、その領域およびそれを取り巻く広い社会全体の現実についての具体的な知識を若者に手渡すこと」によって若者が「自分自身と世の中の現実とをしっかり擦り合わせ、その摩擦やぶつかり合いの中で、自分の落ち着きどころや目指す方向を確かめながら進んでゆくことを提言している。

「ただし、専門領域の区切り方が、あまりに狭いものであってはならないことは確かである。その領域内部で、ある幅をもった選択が可能であるように、また、摺り合わせた結果、その領域ではなく他の分野への進路の変更が生じた場合にも、転換が可能であるように、教育過程が設計されている必要がある。そのような柔軟性と幅を備えた専門教育こそが、若者を教育の外部の世界へと導き着地させる上で有効な、「職業的意義」ある教育だと考える。」

さらに若者に労働の実態・制度・構造についての厳然たる事実に対して、「事実漬け」にすることが有効だと続ける。

抽象的なスローガンではなく、具体的な事実性を伝えることが教育の使命であるという点には強く共感する。そして、それが単に教育システムだけではなく、企業の人材育成システムの中でも共有されることなしには、新しいシステムは生まれてこないものなのだろう。

具体的事実性に基づいて、暫定的に選択した専門性を足場にしてその周辺への好奇心を広げて行き、場合によっては、その専門性を変更する柔軟性の必要性を主張する。そして、広い意味でのCraftsmanship 職人技という、専門性へのコミットメントを与えることを教育の職業的意義を獲得するために提起している。

学者としての生真面目さが前面に出た、決して読みやすい本ではない。しかし、その背後から、後の世代に対する責任感のようなものがほとばしっている。技術論はともかく、彼女の、苦境にある自分の後輩たちに何かをしたいという気持ちは伝わった。そして、社会人の中には、だったら自分に何はできるのかと考える人々は少なくないはずだ。ウェブという環境の中で、そういった思いがどのように具体的な有用性を達成できるかという宿題を著者からぼくはしっかりと受け取った。