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中国ロックは、ゴミCDから生まれた

Carsick Carsの中南海というノイズのようなリフレインがやけに耳について仕方がない。フジロックに参加する、Sonic Youthについてこないんだろうか。

もう少し知りたいという余韻から、検索していたら、アンディ・ベータのインタビューが見つかった。これが、また、中国のロック創世記が垣間見られて、面白い。

http://andybetablog.blogspot.com/2008/08/carsick-cars-interview.html

B 生まれたのはどこ?

1986年に北京で生まれました。両親ともに北京の出身です。しかし私の父親は、実際には中国の北東部の東北(Dongbei)出身です。私の祖父は文革前には、教授で、かなり有名な知識人でした。文化大革命の時に、彼は北京を離れ、私の父親が生まれた東北部の小さな町で生活することを強制されました。文化大革命が1970年代の後半に終わってようやく北京へと戻ることを許され、私の父親はそこで母親と出会いました。

B 君にとっての最初のアメリカ/西洋文化は何だった?

小さな頃は、テレビを通じてアメリカ文化のことを知ったんだと思います。アメリカ文化について本当に知って、大好きになった最初のものは、プロレスでした。いまでも僕はプロレスが大好きです。実際、Jeff Hardyの大ファンで、ずっとJeff HardyのTシャツを手に入れようとしてきました。残念ながら今のところ手に入っていません。音楽に関して言えば、15か16歳のころに、マイケル・ジャクソンを聞いたのが最初の記憶です。

最近はそれほど聴かなくなったけれど、今でも彼のファンです。そのあと、NirvanaSmashing Pumpkinsを聴くようになりました。

理由は勉強もしないで悪さばかりしていた高校の友達の一人が、彼らのことを教えてくれたからです。自分はどっちかといえば、良い生徒の部類でしたが、この悪友はとてもクールな奴だったので、彼のおすすめのバンドを聴き始めることになったのです。これが僕がロックミュージックを好きになったきっかけです。

アメリカのアーチストも好きでした。

17歳の時に、アンダーグラウンド雑誌で、Andy Warholの記事を読みました。そして僕は、彼のことがとても気になるようになりました。そしてアートストアで、彼の写真などを探すようになりました。彼のバナナのデザインつきのVelvet UndergroundのTシャツを見つけ、買いました。



実際、このTシャツがMichael (Petits D-22のオーナー)との出会いのきっかけになったのです。彼との出会いをきっかけに音楽に真剣に取り組むようになりました。

僕が、このTシャツを着て、后海(Houhai)の公園を散歩していると、一人の見知らぬ外国人が僕のTシャツを指差して、自分もVelvet Undergroundが大好きだと言ったのです。

僕が、このバンドのことは知らないというと、彼は、すぐにCDショップに行くべきだと言いました。そしてすぐに彼らのCDを手に入れました。家に帰ってCDを聞いたとたん、僕はVelvet Undergroundに夢中になりました。それがミュージシャンになろうと決心したきっかけです。その後、Michaelが、Suicide, Glenn Branca, Sonic Youth, John Adams, DNA、Steve Reichなどの他の多くの音楽を聞かせてくれるようになりました。

B 中国で廃棄用海外CD経由でアメリカの音楽をどうやって見つけたのかを教えてくれないか。

初めのころは、それ以外に、海外のCDを手に入れる方法がなかったんです。米国のメーカーは作りすぎのCDを大量に捨てていたのです。廃棄する時に最初はCDに穴をあけたりしていました。

廃棄用の処理もかなり大雑把だったので、聞けないものもありましたが、実は、ほとんどの曲を聞くことができたんです。中国では、大量にこういった廃棄用CDを購入して、北京や広東や上海やその他の都市の小さな音楽店で販売する会社がありました。

音楽ショップに箱一杯の廃棄用CDが入荷されると、近所の音楽好きが集まって、その中から自分の気に入ったものを必死で探しました。一枚4、5人民元と格安だったし、良いCDは少なかったので、早い者勝ちだったのです。

はじめてこういうショップにいったのは17歳の時でした。隣の少年の手が、切れたCDのせいで血だらけだったのを覚えています。はじめはきちがい沙汰だと思いましたが、結局は僕も同じことをしていました。音楽が本当に好きな人はみな同じだったのです。こうして後にミュージシャンや作家やアーチストになる人たちと多く知り合いました。

B こんなCDでどんな曲を聴いたの?

ほとんどはごみで、ひどい代物でした。内容が何かわからなくても、カバーがクールだと買ったりしていました。Ramonesの3枚組CDセットを買ったことがあります。このバンドを聞いたことなどありませんでしたが、カバーが面白かったのです。聴いてみると内容もかなりクールで、それ以来、Ramonesのファンになりました。この方法でWhite Stripesとも出会いました。カバーがいかしていたのです。以前は聴いたこともなかった伝統的なインド音楽の素晴らしいセットも買いました。これは今でも大好きです。

B その時代の音楽環境についてどう思う?

多くのCDは今考えるとゴミだったけれど、中国では聞いたことのないような変わった音楽をたくさん聞くことは素晴らしい体験でした。当時、僕たちがいつも聴いていたのは、ラジオやテレビから流れる、香港や台湾のひどいポップスや、大陸でのコピー音楽や、愛国的な音楽や古臭い音楽ばかりでした。西洋の音楽では、Kenny Gカーペンターズクラシック音楽を簡単な形に編曲したようなものだけ。

映画のタイタニックが封切りられた後Celine Dionが中国でもっとも人気のある外国人シンガーになりました。どこへ行っても彼女の歌が流れるようになりました。こんな環境なので、そのCDショップに通うようになる前は、音楽があまり好きじゃありませんでした。馬鹿馬鹿しいと感じていたのです。

B 当時の中国のロック音楽はどんな感じでした?

17、18歳になった時に、クラブへ通い始めました。当時、高校に通っていて、大学受験の準備をしていたし、両親が厳しかったので、これは簡単ではありませんでした。大学に入ると、クラブに通うのは簡単になりました。

最初に出遭ったバンドのすべてがクールに感じました。犯罪者や問題児のように見える人々と一緒に小さなクラブでロックンロールのライブを聴くのは、ちょっと怖いところもありましたが、音楽がエキサイティングだったので、僕は演奏しているミュージシャンが好きになり、彼らのところによく出入りするようになりました。でも、当時の僕はシャイ過ぎました。

今になると、当時のこういったバンドはすべてアメリカやイギリスのバンドをコピーしていただけだということがわかったのですが、当時は、それを聴くだけでも凄い体験でした。1,2年後に、僕は、3つか4つ良いバンドがあることに気づきました。Hang on the Box, Joyside, PK 14 やReTROSです。それ以外のバンドのほとんどは単なるコピーでした。

また多くのヘビーメタルデスメタルバンド、古いパンクや、新しいパンクなどもいました。多くのオリジナルなバンドが誕生してミュージックシーンが良くなってきたのは、2004年や2005年になって突然のことだと思います。しかし同時はそんなことには気づきもしませんでした。とにかくすべてがクールで、どんなライブにでも駆けつけたものでした。
(以上)

中国では、歴史が動いている。それが幸福だけでなく、多くの不幸や悪運を招き寄せているかもしれない。しかし、その中にいる人は、必ず、歴史や社会変動の律動を感じているはずだ。

中国のロックシーンの中心は、一人っ子政策の中で過保護に育てられたエリート大学生たちだという。彼らは、iPhoneの試作機を盗んだ嫌疑で、警備担当に罵倒され、殴られ、寮から飛び降りて自殺した、地方出身の成り上がりの青年ではない。

中国には、そういった凄まじいギャップが逆巻いている。

Carsick Carsのボーカルの、政治や権力というものに対して、アイロニー的距離を保ちながら、自分の世界を守ろうとする姿は、日本の自閉的な世界に類似しているかのように見える。

しかし、彼らは、同じ国土の中に、大量な矛盾を内包していることを、自覚している。そしてその上に乗っかった自分たちの矛盾した安定に、無意識の負債感を持っているはずだ。

だからこそ、中国のロックは、これから、触れれば血がほとばしるような鮮烈さを持っていく可能性が大なのかも知れない。

でも、この牧歌的な中国のロック創世記は、やはり、僕たちにもノスタルジーを誘う。

彼らもまた、我が内なるアメリカを抱えて生きてくのだ。