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くたばれヤンキース

今週のニューヨークタイムスの日曜版で、Toureというライターが3冊のヤンキーズ本を取り上げて、このチームの変貌と、ステロイド禍について語っている。

「くたばれヤンキース(Damn Yankees)」

A-ROD
By Selena Roberts
(Harper/HarperCollins Publishers. )

THE YANKEE YEARS
By Joe Torre and Tom Verducci
Doubleday.)

AMERICAN ICON
By Teri Thompson, Nathaniel Vinton, Michael O’Keeffe and Christian Red
(Alfred A. Knopf.)

http://www.nytimes.com/2009/07/26/books/review/Toure-t.html?ref=review&pagewanted=print

なぜヤンキーファンはいまだにヤンキースが好きなのかとToureは書き始めている。

ステロイドスキャンダルの中心は、みなヤンキーズのプレイヤーたちじゃないか。

ジェイソン・ジアンビアンディ・ペティットロジャー・クレメンスアレックス・ロドリゲス

総工費15億ドルといわれる新球場に、ニューヨーク市資金をつぎ込ませているにもかかわらず、道楽息子がレアものスポーツカーのコレクションを積み上げるかのように、高いフリーエージェントを金にまかせてかき集めているヤンキースというのはどうなんだ。

昨年のシーズンオフに、この球団は3選手に4億2300万ドルを投じて、同時に、ニューヨーク市の免税債で10億ドル以上を調達し、納税者に負担をかけた、とToureは批判する。

チケットやオンラインコンテンツの売上によって他球団より財政的に恵まれているはずの、ヤンキースがなぜ公的資金をいまだに必要とするのか。

ヤンキースには二つの特性があると彼は主張する。こういった金まみれの部分を代表するのが、アレックス・ロドリゲスだ。ステロイドまみれのキャリアにもかかわらず、球界史上最高金額の契約を締結し、ヤンキースワールドシリーズ制覇に一切貢献しない男。

A-Rodはたしかに、レジー・ジャクソンベーブ・ルースの後継と称されてしかるべき長打力、人気、とびっきりの個性を持ち合わせている。

ただ、ミスターオクトーバーや、バンビーノとは決定的な違いがある。レジーもベイブも、ここ一番の大勝負に滅法強かった。これに比べるとロドリゲスは、公式戦での好機になんども不発だった。いわゆるclutch hitterではない。

ニューヨーカーが自らの分身のように愛するヤンキースとは、もう一つの顔の方だ。

デレク・ジーターに代表される、ヤンキース。だからこそ、ファンは、細い縦じまのユニフォームに誇りを感じるのだ。

ジーターはヤンキース生え抜きで、4度のワールドシリーズでの優勝経験を持ち、ガッツのある立派な選手として球界の誰からも尊敬されている。

バーニー・ウィリアムズ、サーマン・マンソンジョー・ディマジオ、Whitey Ford, ルー・ゲーリックなどのBronx Bombersの古き伝統にジーターの名前も連なっているのだ。こういった選手たちがいるからこそ、ニューヨークのファンたちは、自分たちの自我の延長としてヤンキーズを見なすようになるのだ。すなわちプレッシャーの中でもタフであり続ける男たちの集団だ。多くのニューヨーカーたちは、自分たちをそのイメージに重ねている。

ロドリゲス的な部分というのは、ニューヨーク以外の人々が、この街に対して感じる思いを反映しているのだ。実態以上に膨れ上がったイメージ。金融的に膨張し、常に論議の的となっている街。残念なことに、今のヤンキースではA-Rod的な部分が支配的になっている。

2009年のヤンキースにはむらがある。

時々は素晴らしい試合をするが、結局アリーグ東部地区で、前半はほとんど、にっくきレッドソックスの後塵を拝していた。直接対決で、ヤンキースレッドソックスに対して0勝8敗というありさまだ。

ヤンキースロドリゲス/ジーター的分裂は、ムラのある野球に繋がっているが、本の題材としてはこれほど面白いものはないと著者は言う。

特に金にまかせてかき集めた選手たちに対するジーターに代表される職人集団が持つ拒否反応などは、滑稽を超えて、物哀しい。

特にニューヨークヤンキースの黄金時代を率いたトーレ監督のこんな言葉は、深い。

「私はヤンキースが90年代後半に、個人的エゴにとらわれない、仕事師的選手たちの集団から、自己中心的で、自分の成績だけに執着するスター選手の寄せ集めへと変貌するのを目撃してきた、とトーレは言う。2002年のシーズンを彼は以下のように回想している。「自己中心的ということだけが問題だったのではない。我々は、新しい流れのためにみなスポイルされていった。多くのプレイヤーが、チームのために何かをやり遂げるのではなく、自己満足だけを追及するようになった。多くの選手たちが、泥にまみれて何かを成し遂げるのではなく、自分がどのように見えるかだけを気にするようになっていったのだ。」

(以上)

松井秀喜が固執するピンストライプの伝統とは、トーレやジーターに具現されているチームのために身を粉にする職人たちの発するオーラなのだ。ヤンキースファンたちが、彼を心から愛したのは、そのピンストライプの伝統と精神をまさにこの日本からきた選手が身にまとっていたからのだろう。

僕には忘れられないシーンがある。手頸を骨折し、4か月のリハビリから回復した松井秀喜の初打席に、球場中のファンから鳴り響いた拍手の波、渦だ。松井はちょっととまどうように球場を見まわしてから、ヘルメットを上げて、歓声にこたえた。その日、彼は4打数4安打。最後の安打を打った時に、ベンチで、あきれたよというような表情で笑うジーターの顔がなんどもニュースで流された。気持ちでプレイする松井という選手の真骨頂のような日だった。

ステロイド漬けの巨人たちの、デフォルメされたコロシアム的戦闘は、コンピュータグラフィックに慣らされたファンにはたまらないのかもしれない。ただ、こういった方向性は、野球選手たちの貴重な生命だけではなく、ヤンキースに代表される多くのニュアンスに満ちた野球の神話性を間違いなく奪っている。

ホームランを量産し、個人成績は上げるが、チャンスには弱いA-ロッドとは対極にいるのが、松井秀喜なのだ。身を粉にしてチームのために戦い、しかも、ここ一番の大勝負に強いクラッチヒッター。松井秀喜はまさに、ピンストライプの伝統の真ん中にいる選手なのだろう。

当然、神々の戦いは厳しい。怪我、DHに限定されるというような事情を考えてくれるほど、メジャーリーグの世界もファンも甘くはない。ただ、松井秀喜ヤンキースのユニフォームを脱ぐときに、松井が失うものよりも、ヤンキースが失うものの方がはるかに大きいはずだ。

その時、ぼくは、懐かしい映画のあのタイトルを心から口にするだろう。

Damn Yankees. くたばれヤンキース

でもその時は、かなりさみしい気分になるはずなのだ。