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音楽の時間:ムーンウォーク

マイケル・ジャクソンが死んだ。その後の大騒ぎも僕にとってはどこか遠くで起こった出来事にすぎない。ジャクソン5の頃の愛らしさから遠く離れ、整形を繰り返した彼の現在には、怖れに近いおののきすら感じる。

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人並みにベストセラーのスリラーぐらいは聴いたかもしれない。聴こうとしなくても、当時生きていた誰もが、あたかも空気のように彼の声やビートに触れていたというのが正確かもしれない。

ただ、彼のダンスは確かに素人の僕の眼もひきつける代物だった。

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ニューヨーカーでJoan Acocellaという人がムーンウォークというタイトル(walking on the moon)で、彼のダンスの変遷から見たマイケル・ジャクソンをいきいきと描きだしている。

http://www.newyorker.com/arts/critics/dancing/2009/07/27/090727crda_dancing_acocellahttp://www.newyorker.com/arts/critics/dancing/2009/07/27/090727crda_dancing_acocella


1969年当時ジャクソン5の末っ子だったマイケル・ジャクソンはすでにトップクラスのダンサーだった。

「もっとも驚くべきことは、彼の音楽的才能、すなわち曲に忠実かつ創造力豊かに反応する能力の素晴らしさである。音楽に合わせて踊り、ビートの前、後と自在にステップを踏み分けている。彼の才能が自然に身体の中から滲みだしている。彼はこの才能によって広く愛されることになる。」


1979年の”Don’t Stop’Til You Get Enough”の中でも、11歳の時と同様に22歳のマイケルは、自然ないきいきとしたダンスを披露している。彼は喜びにあふれてステップを踏み、頭を大きくふり、シャツもはだけたままだ。

そして80年代を代表するミュージックビデオである、Thriller(1982)の中の3曲。
「Billie Jean」, 「Beat It」、「Thriller」。Thrillerは史上最高のベストセラーアルバムとなった。この時点で、ジャクソンはダンサーなら欲しいと思うすべてのものを持ち合わせている。マイケルの大人の肉体が生み出す動きは、鋭く、優美で、明晰だった。

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ためしに1987年の“The Way You Make Me Feel”のビデオを見てみるといい。群舞の中で、個々のダンサーの顔はよくわからないが、その踊りを見れば、マイケルがどれかは一目瞭然だ。

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この頃から、マイケルは、ブレークダンスから取り入れたムーンウォークを踊るようになった。

スリラー時代のマイケルのビデオは、MTVを地味な目立たぬ存在から一気にセンセーショナルな現象へと変えた。ジャクソンは、自覚的にそれを目指した。1998年のMoonwalkという自伝の中で、MTVという新しいメディアの先駆者となりたいという発言がある。彼は大量な資金も制作にふりむけてた。1995年の“Scream”の政策コストは700万ドルだった。マイケルは自分の作品がビデオと呼ばれるのを嫌った。ショートフィルムという名前を使っていた。実際、撮影に使われたのはビデオではなく、35mmフィルムだった。彼は真剣だったのだ。

ジャクソンの振付はさまざまなダンスの影響を受けている。ヒップホップ、ソックホップ、ソウルトレイン、ディスコ、ジャズダンス、タップダンス、そしてチャールストン。彼自身も、ムーンウォークのような新しいダンスムーブメントの火つけ役にもなった。

マイケルのパフォーマンスへの協力者たちの存在も忘れてはいけない。Michael Peters, Vincent Paterson, Jeffrey Danileなど、経験豊富なステージダンサーやテレビの振付師たちが関わっている。コラボレーションの方法としては、ジャクソンが、ステップやアイディアを考えて、それを振付師のところに持っていき、彼らがそれを首尾一貫したダンスパフォーマンスへと組み立てるというものだった。

マイケルはミュージックビデオのダンスシーンに主役の背後で、多くのダンスアンサンブルが踊るというコンセプトを持ち込んだ。ただそういうオリジナリティは例外だ。ダンスということだけに限れば、彼の動きの数は限られている。その数少ないステップを、マイケルが繰り返すのを人々は愛し続けたのだ。実際、マイケルの歌唱力に対しては、辛口だった評論家たちも、ダンスだけは、手放しで愛した。

マイケルは、とりわけ、ミュージカル映画に対する該博な知識を持っていた。

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特にフレッド・アステアを尊敬してやまなかった。アステアに誉められたことの喜びを自伝の中に書き遺している。マイケルは彼の自宅に招かれた際に、アステアと彼の振付師のHermer Panにムーンウォークを教えこんだ。

自伝の中で、アステアが、ジャクソンに対して言ったこんなコメントがきわめて興味深い。

「私たちのダンスの源泉は怒りだ。」

特にアステアによる発言であるということがきわめて興味深い。

ジャクソンは終生この偉大なる先輩への尊敬の念を失わなかった。でも、アステアが、映画撮影に対する影響力を握るにつれて、彼が主張しつづけた二つのルールには決して従わなかった。

① ダンスを、大写し(reaction shot)やその他のショットの挿入によって中断しない。

② クローズアップよりは全身ショットを好む。

アステアにはダンスが一番大切だったのだ。彼は、その信念に従って、映画を撮影させた。

ところがマイケルジャクソンにとっては、ダンスは三番目、ともすれば四番目の意味しかなかった。ビデオにおいて、彼が重視したのは、歌で、次にストーリーそして撮影だったのである。ジャクソンは、自分のダンスにさほど重きを置いていない。

批評家たちは、Thrillerアルバムで24歳のマイケルはその音楽性やそのダンスパフォーマンスにおいてピークに達していたと考えている。その後のビデオには以前ほどの人気はなくなった。理由は簡単で、前ほど質が良くなかったからだ。

ダンスやストーリーの代わりに、花火を使うような派手な演出が多用された。

その後コンピュータグラフィックが利用された。マイケル消え、また現れ、壁を歩きというような。こういう魔法と同じ時期に、むかつくほどセンチメンタルな世のため人のためというテーマが登場することになる。

反戦的なHeal the World(1992), 環境保護についてのEarth Song(1995)。

マイケルがダンスをしていれば、まだましだった。でも彼は踊ることをやめた。

マイケルが歩くだけ、あるいは、座っているだけのビデオもあった。

Heal the Worldでは、マイケルが登場することもなかった。

後期の作品の中の最大の失敗作であるYou Are Not Alone(1995)では、半裸のマイケルが羽根をつけた天使に扮している。言うまでもなく、ダンスはない。

これらのビデオには拡大しすぎた自我やその反対の自己憐憫が明らかだ。

最後のビデオ。ロンドン公演用のリハーサルの中では、マイケルは立ち上がり、ダンスのステップを踏んだ。関係者が、病気だったなどは信じられないというようなパフォーマンスだ。ただ彼はやはり50歳であり、リハーサルでは全力で演じる必要もなかったはずだ。

マイケル・ジャクソンは間違いなく、今でも偉大なダンサーだった。その2日後、彼は死んだ。(以上)

マイケル・ジャクソンは、80年代の鮮やかで圧倒的なステップとビートの残像を残して僕の前から消滅した。そして、わけのわからぬスキャンダルの中でしかマイケルの名前を聞くことはなくなった。そして、彼は、再び、あの鮮やかなダンスステップを踏むことで、再生しようとしたのかもしれない。しかし、既にビートは消え果てていたのかもしれない。