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グレートギャツビーに関するいくつかの記憶

夏バテ気味で、冷房にあたると頭痛がするので、三連休というのに、何度もぬるい風呂で長風呂しながら、村上春樹が翻訳したグレートギャツビーをずっと読んでいた。

村上春樹は、この本の長いあとがきで、自分が作家として影響を受けた作品として、スコット・フィッツジェラルドの「グレートギャツビー」、レイモンド・チャンドラーの「ロンググッドバイ」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の三冊をあげていた。

デビュー作の「風の歌を聴け」の美しく、謎めいた出だしも、同じく謎めいた、ギャツビーの出だしに共鳴しているし、彼が英語圏の小説の翻訳をはじめて以来、なんども、ギャツビーに対する思いを述べてきている。

村上春樹は翻訳と小説を書くという行為の関係について繰り返し語ってきた。

実際、翻訳という孤独な行為の積み上げが彼の文体を作ったともいえる。

ニューヨークでコロンビア大学の文学部の大学院生に英語を習ったことがある。20年以上も前のことだ。当時勤めていた日本企業の社員用のプログラムだった。

僕はグレイト・ギャツビーを一語一語、一緒に読むという変則プログラムにした。小柄で赤毛のユダヤ系の女子学生は、一瞬、フィッツジェラルド何か読むわけというような表情をした後、Greatと微笑んだ。それから数ヶ月間、週2回僕がパッセージを音読して、わからないところを彼女に聞くという奇妙な時間が続いた。それが実用的な意味を持ったかというとかなり疑問なのだが、一つだけわかったことがある。フィッツジェラルドの文章は、ネイティブにとっても、わからないところが多い。特に、謎めいた冒頭の部分がそうだった。文学専攻の彼女も、何度も、これは私にもわからないと肩をすくめた。ギャツビーはそれほど繊細で微妙な文章だった。

村上春樹はギャツビーの翻訳への想いを書きつづけてきた。その想いがあまりに強いので、なんとなく、彼は、結局、ギャツビーを訳さないような気がしていた。そんな彼が3年前(2006年)に、とうとうギャツビーを翻訳すると聞いたときに、ちょっと驚いたのを思い出す。身体でもわるいのだろうかと思ったほどだ。

「僕は『グレイト・ギャツビー』の最初の部分がものすごく好きなんですよ。あれを読むといつも胸が震えるんだけど、でも今のところはまだ訳せないんです。そろそろ『ギャツビー』を訳そうかなとときどき思うんだけど、あの最初の1ページを見ただけで、「あ、まだだめだな」と思って、いつも諦めちゃうのね。」 (翻訳夜話)

ギャツビーを読んでいて、アイビーリーグの出身者が、自分の出身校を地名で言い合う一節があった。ペーパーバッグから目を上げた赤毛の学生が「Snob」と軽く顔をしかめて呟いた。その瞬間に、彼女がユダヤ人であること、アメリカという社会の中で女であること、ギャツビーの大豪邸のある場所の近くの普通の町で育ったことなどが一度にぼくの頭の中に流れ込んできて、文章の中から、濃密な時間と空気の匂いが溢れ出たのが鮮明に記憶に残っている。

かなり丁寧に読んだので、1冊すべてを読み終わることはできなかった。どこまで読んだのかは忘れてしまっていたし、テキストに使ったペーパーバックも今はもう手元にない。

でも、今回グレートギャツビーを読んでいて、自分がどこまで読んだかが、はっきりとわかった。彼の文章を辿って行く中で、オリジナルな英文の連なりまでがうっすらと思いだされる部分とそうでない部分があったからだ。その断絶部分もはっきりとわかった。

ヒロインの古い友人ジョーダン・ベーカーが、語り手のニック・キャラウェイに、ケンタッキー州ルイビルでの、ディジーの結婚にまつわる秘密と、ギャツビーとデイジーの関係のことを告白するシーンの途中だった。

村上春樹は、この本のあとがきで、こんなことを書いている。

「『グレート・ギャツビー』はすべての情景がきわめて繊細に鮮やかに描写され、すべての情念や感情がきわめて精緻に、そして多義的に言語化された文学作品であり、英語で一行一行丁寧に読んでいかないことにはその素晴らしさが十全に理解できない、というところも結局あるからだ。

グレート・ギャツビー』において、文章家スコット・フィッツジェラルドの筆は、二十八歳にしてまさにその頂点に達している。ところがそれを日本語に翻訳すると、そこからは否応なく多くの美点が損なわれ、差し引かれていく。デリケートなワインが長旅をしないのと同じことだ。独特のアロマやまろみや舌触りが、避けがたく微妙に失われていく。

 だからこういう小説は原文で読んでいただければいちばんいい、ということになってしまいそうだが、ところがこの原文がまた一筋縄ではいかない。空気の微妙な流れにあわせて色合いや模様やリズムを刻々と変化させていく、その自由自在、融通無碍な美しい文体についていくのは、正直言ってかなりの読み手でないとむずかしいだろう。ただある程度英語ができればわかる、というランクのものではない。」

本当に、厄介な英文だった。古典文学を研究している大学院生のアメリカ人が、何度も、首をかしげたのが懐かしい。

ただ、一行一行、しつこく読むという体験は、確実に、僕の肉体にはっきりとした息遣いとして記憶されていた。村上春樹がギャツビーと向かい合ってきた長い時間と、彼を契機としてフィッツジェラルドを読んできた僕の時間が複雑に交錯している。一種の快楽だと思う。これが、長く人生を生きてくる良さなのかもしれない。