21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

象使いはシノポリが好きだろうか

1978年に、「風の歌を聴け」でデビューした村上春樹に、ぼくはすぐに夢中になった。当時大学生だったぼくは、その短く、Crispyな文体とその洒落た固有名詞と、その教訓的なフレーズにひきつけれた。とにかく夢中だった。

そういった当初の熱狂は、薄れ、彼が力を入れ始めた長編小説には、どちらかと言えば惰性でつきあう感じだった。そして、ねじまき鳥クロニクルあたりから、その惰性もどこかへ消え、文庫になる頃に読むか読まないか程度の読者になっていった。

1Q84は久しぶりに店頭に並んだ瞬間にハードカバーで買っていっぺんに読み終えた。なんとなく、村上春樹が読みたくなっていたのは事実だ。デビューから31年がたっている。大学生だった、ぼくも、普通の中年男になっている。村上がプールサイドという印象的な短編の中で人生の折り返しとした35歳はもう遠い昔だ。少々沈黙してしまうような時間が流れた。 彼の、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」などを読み返してみた。 小説の細部に対する記憶は全くない。その意味では、新しい小説を読むようなものだ。ただ、彼が書く文章のスタイルや息遣いに自分がどうひかれたかについての身体的な記憶はかすかに甦ってきた。

ぼくは、文章の意味ではなく、その言葉のつらなりやリズムの気持ちのよさに没頭していたのだ。その意味では、文章の意味や、描写ではなく、それを語る、村上の文章=声にぼくはひかれたのだ。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」 (中略) しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。 (中略) そんな風にして僕は20代最後の年を迎えた。 今、僕は語ろうと思う。もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。 しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。 弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。(風の歌を聴け)」

ギャツビーの有名で、美しく、謎めいたはじめの部分と同じように、ぼくは、このプロローグにひきつけられる。その意味にではなく、象が平原に還り、ゆるゆると歩いていくイメージのあまりの美しさに陶然としてしまう。村上が言葉を紡ぎだす際の息遣いのようなものにぼくは31年前も、そしていまでも、ひきつけられるのだ。

村上春樹の物語や言葉遣いは、読者の中に埋め込まれていた記憶や物語を開放する装置のようなところがある。 音楽の中にも、旋律だけにとどまらない、演奏者の声というものがあることについての、僕の記憶がよみがえってきた。

六本木の高層ビルでの仕事を終え、移動中のタクシーの中で、いつものように午後のクラシックを聴いていた時のことだ。携帯ラジオのイヤフォーンを通して、聞き覚えのある旋律が流れた。題名は知らないが、20数年前に本当に部分まで記憶に残るほど何度も聴いた旋律だ。 番組のDJは、リヒャルト・シュトラウスの「影のない女」と曲名を告げた。

20年近く前にぼくはなぜこの旋律を聴き続けたのだったろうか。

大学時代の友人の顔が浮かんできた。高校、大学と一緒だった友人で、二人とも、友人がやたら多いという方ではなかったので、世間では親友とよばれてもいい関係だっただろう。でも親友という言葉はどこかぼくたちの関係の実態とは違っていた。

たしかに、ぼくたちは、自分の内密な部分を共有していた。ぼくは、彼の恋人の涙を見ていたし、彼と彼女が破綻していくのを目撃させられてもいたぐらいだ。 ぼくの友人は、人生というものに対して、必ずしもポジティブではなかった。とびっきりの秀才で、甘いマスクで何不自由ない人生のようなのに、彼は、どこか暗く、なげやりなところがあった。彼の特徴を一言で言うと、いつも不機嫌そうだった。 特に、つきあう女に対する酷薄さがあった。 なんで、そんな風なんだと、彼のアパートで、彼が好んだマーラーの第5番を流しながら、安いウィスキーを飲みながら、聴いたことがある。

(実際、大学生の頃、驚くほど、多くのウィスキーを飲んだ。ビールでも日本酒でもなく、ウィスキーだった。サントリーホワイトの細長い瓶が思い出される。) 家庭があまりうまくいってないからかなあ。親父が家に女を連れてきたことがあったんだ。とんだ愁嘆場を子供の頃から見せられれば、人生にはそんなに前向きにはなれないものだと、彼は、子供をさとすような口調で言った。でも、決して皮肉な言い方ではなかった。そんなところに原因があるのかもなとニヒルな笑いを浮かべた。

そんな彼が愛したのが、クラシック音楽だった。 ぼくが、それなりにピアノを弾けるのに対して、おれがそのぐらい弾けてたら絶対音楽大学を目指したよと、プライドの高い彼が、少々、悔しそうにいったのを鮮明に記憶している。人に自慢できるようなピアノの腕前だったわけでもなかったんだが。 彼は、吉田秀和の「主題と変奏」というエッセイ集を繰り返し読んでいた。シューマンのことを書いた冒頭のエッセイの烈しさを彼は愛していた。コンサートに小石を握り締めて行くなんて、エキセントリックでいいよなと嬉しそうに何度も彼は言った。

大学を卒業し、友人は、大手の損害保険会社に就職し、ぼくは、大学に残ることに決めた。最後にあった時、学者にでもなるのか、いいよなと不満げな顔でぼくにカセットテープを手渡した。ぼくが、記念におまえの名盤コレクションを作ってくれよと頼んであったからだ。マーラー全曲とかいうのではなく、第五番のアダージョとか、サワリ集なというかなり不謹慎な頼み方だった。 面倒くさがりの彼に頼んだせいもあって、目次めいたものは一切なかった。わかってあたりまえだろというような顔で笑った。

マーラーシューマンぐらいわかったが、それ以外は、定かではなく、だからといって、車のBGM程度の不真面目な聴き方だったから、それで格別支障もなかった。助手席に乗った、ガールフレンドに、クラシックファンなんだといわれ、そのたびごとに、まあねとごまかすのを繰り返した。どこかで、彼の笑い顔を反復していたような気がする。

動機においても、真剣さにおいても不純ではあったが、くりかえし、くりかえし聴いたことだけは事実で、いつのまにか、鼻唄で、細部をうたえるほど、旋律が記憶の底に残った。 ラジオのシュトラウスは、シノポリの指揮、ドレスデン交響楽団の演奏だった。 当然、彼のカセットはなくしてしまったし、もう随分、音信不通なので、あのシュトラウスが誰の指揮のものかは永遠にわからない。

ラジオから聴こえた演奏は、シノポリの情感たっぷりの指揮。シノポリの声が聴こえる演奏だった。シノポリの情感が、いくつかの近接過去を経由して、カセットの旋律の記憶を瞬時に形成した。カセットから聴こえたシュトラウスは、シノポリの情感で再形成されてしまったといってもいいだろう。実際、シノポリ好きの友人が選んだのだからとも考えてみたりもする。

20年ぐらい前に、アメリカへ赴任する前に、一度だけ、彼と会ったことがある。大学時代の友人の結婚式の場だった。二次会か三次会で、二人だけになった。 銀座のショットバーで、昔よりは高いモルトウィスキーを飲みながら、友人は損保のリスク評価の仕事をしていると、昔どおりの面白くなさそうな声でいい、俺仕事やめるかもしれないと言った。組織づとめはやっぱり苦手だ。弁護士までは大変かも知れないが、そんなような仕事につくと思うといった。 相変わらずクラシックかと聞くと、昔ほどじゃないと、笑った。いまでもやっぱり、マーラーで、指揮はシノポリがいいと言った。

これが彼にあった最後だった。 風のうわさでは故郷に帰って、税理士事務所を開いたらしい。マーラー好きの税理士というのはロマンチックなのかロマンチックじゃないのかよくわからない。

アメリカへ渡ってから、シノポリのマーラーの第6番を聴きにいったことがある。情感たっぷりの指揮に、場内の聴衆からすすり泣く声が聴こえた。多くの人の涙を誘う演奏だった。 その頃、テレビで、レナード・バーンスタインが、ピアノを弾きながら、なぜマーラーの旋律はユダヤ人を泣かすかという番組をやっていた。マーラーの旋律の中には、ユダヤの懐かしい旋律が満ちているという。彼に聴かせてやりたいと思った。 シノポリの指揮には、たしかに、彼の声が満ちていた。そのシノポリも今はいない。 なぜまた、村上春樹が気になるのかは、よくわからない。以前と比べれば、小説の細部ばかりが気になる。小説のメッセージではなくて、その文章のひとつひとつ、言葉遣いを味わうというような。小説を味わうというのは、その作家以外にはない、声を追いかけることなのだろう。 村上の文章に触れたときに、友人はどんな顔をするのだろうかと、ふと思った。彼は、不機嫌なままだろうか。