21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

僕はこんな村上春樹の短編が好きだった

1Q84をめぐって、多くの人々がいろんなことを語りはじめている。作品について語るということを自分でやってみると、どこか、子供の頃の何かを何かで置き換えていく遊びに似ているような気がしてならない。ある物語を、理解するということが、何か、自分が理解しているものに置き換えていく機械的な作業に思えてしまう。その置き換え遊び自体はそれなりに楽しいし、その遊びを通じて、誰かほかのひとに、お見事という印象を与えることもできる。でも、あたりが暗くなってきて、お腹もすきはじめ、心細くなってくる頃には、自分が熱中していれば、いるほど、心の中が空虚になってしまう。それが、他の誰かに見事と喝采されるような手際の良さだったとしても、むしろ、そうであればあるほど、心が空しくなってしまう。

まあ、世の中には当然、もっと重層的な置き換え遊びのできる人もいるし、それは、ぼくの置き換え遊びなどとは比較にならないものだということはわかるのだけれど。

どこかで、何かを何かに置き換えていくという作業に徒労感のようなものを感じる時がある。

村上春樹の読売オンラインのインタビューで物語と生のメッセージの違いのことをこんな風に語っている。

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20090616bk02.htm

「作家の役割とは、原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げていくことだと考えている。「物語」は残る。それがよい物語であり、しかるべき心の中に落ち着けば。例えば「壁と卵」の話をいくら感動的と言われても、そういう生のメッセージはいずれ消費され力は低下するだろう。しかし物語というのは丸ごと人の心に入る。即効性はないが時間に耐え、時と共に育つ可能性さえある。インターネットで「意見」があふれ返っている時代だからこそ、「物語」は余計に力を持たなくてはならない。

テーゼやメッセージが、表現しづらい魂の部分をわかりやすく言語化してすぐに心に入り込むものならば、小説家は表現しづらいものの外周を言葉でしっかり固めて作品を作り、丸ごとを読む人に引き渡す。そんな違いがあるだろう。読んでいるうちに読者が、作品の中に小説家が言葉でくるみ込んでいる真実を発見してくれれば、こんなにうれしいことはない。」

とても率直に、彼の「意図」が語られている。ぼくは、村上春樹の、自分を語っているようなフィクションの語り口の小説が一番好きだったことを思い出した。

http://ameblo.jp/whatawondefulworld/theme-10000458189.html
2005年の秋に、ぼくは、出張で札幌に行き、その帰りに空港の書店で、平積みになっていた「東京奇譚集」(新潮社)を買った。千歳空港のロビーで飛行機の時間まで、ビールを飲みながら、ページを開いた。その時読んだ、「偶然の旅人」という短編にひきつけられて、空港で、その印象をブログに書いたことがある。

回転木馬のデッドヒートのような書き出しだと思った。僕=村上の体験談という語りだしで、人生における偶然の一致についての話だ。

自分がマサチューセッツ州のケンブリッジにいたときの記憶についての話から始まる。地元のジャズクラブで、トミー・フラナガンのトリオの演奏を聞いたときの話だ。

ジャズ好きな彼は、もともと、トミー・フラナガンが好きだった。でもその日はあまり調子の良い演奏じゃなかった。

彼は、頭の中で、もし、今、二曲リクエストができたら何を選ぶだろうと考える。そして、地味で「渋い」2曲を頭に浮かべた。

すると、フラナガンは、ステージの最後に、まさにその2曲を続けて演奏した。それが最初の偶然。

それをまくらにして本題の、ある知人が彼に語った話を語り始める。

その知人は、音楽大学のピアノ科を卒業したあと、調律師になった41歳の男だ。彼は、ゲイで、その事実を隠していない。

大学時代に女の子と付き合うようになって、彼は自分がゲイであることに気づいた。彼は、そのことをガールフレンドに告白する。

そのカミングアウトは自然、まわりに知れることになり、家族の、しかも、もっとも親しかった姉と彼の関係を滅茶苦茶にしてしまう。

二つ年上の姉の結婚話が暗礁に乗り上げそうになったのだ。

それ以来、姉そして、結婚相手の義兄との関係も疎遠になった。

41歳の彼は火曜日ごとに神奈川県のアウトレットモールへ出かける。

別に買い物好きなのではなく、そのモールの中にある、静かで、空いているカフェに行き、10時ぐらいから昼過ぎまで本を読むのが好きだったのだ。

ある日、いつもどおり、そのカフェで、ディケンズの「荒涼館」を読んでいると、近くに座っていた、中年の女から声をかけられる。

彼女も、同じディケンズの「荒涼館」を読んでいたのだ。

そんな不思議な偶然を契機に、二人は毎週、話をするようになった。

女は、結婚しており、子供もいる。夫は、仕事に忙しく、自然、読んだ本について会話をするような関係ではとうになくなっている。女は、彼とのこういった時間を楽しむようになる。

ある日、女は、男をホテルに誘う。

調律師は、自分がゲイであることを告白する。女は動揺しながら、明日、乳癌の検査に行くことを伝える。

動揺する彼女をなだめながら、ふと、彼は、彼女の耳たぶに姉と同じようなほくろがあることに気づく。

彼女とそんなことがあって、男は、長い間、音信のなかった姉に電話をする。姉は、一瞬の深い沈黙のあと、会いたいと言う。

久しぶりにあった姉に、近況や、当時の気持ちなどを伝える。いろいろな偶然が重なって、今日、電話をしたことなど。

姉は、明日、乳癌の手術をすることを男に告げる。

知人は、聴き手に、こんなことを言う。

「偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。

でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまいます。まるで真昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、空を見上げても何も見えません。

しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるんです。

その図形や意味合いが鮮やかに読みとれるようになる。そして僕らはそういうものを目にして、『ああ、こんなことも起こるんだ。不思議だな』と驚いたりします。本当はぜんぜん不思議なことでもないにもかかわらず。そういう気がしてならないんです。」

姉の手術は無事済み、男は、姉や義兄やその子供たちとの関係を回復する。

こういう話だった。ビールを飲みながら、こんな物語の流れをPCに書き取っていたら、とても気持ちがよかったのを記憶している。その日、村上春樹の父親と同じように、大正生まれで教師で、戦争で中国に行ったことのある、1年前に死んだ、ぼくの父親の好物だったノースマンというお菓子を空港でお土産に買った。そのお菓子が父親の好物だということは、父親の葬儀にやってきた年老いた叔母が仏前に供えるためと、携えてきた時にはじめてぼくは知った。

この物語をまとめて書きうつしているうちに、そんなぼくの記憶が喚起され、ぼくのなかで物語が動きはじめていたのを覚えている。

好きな物語は、別の物語を誘発するものだ。その感覚は、置き換え遊びに行き暮れたのとは違ったあたたかさがある。ぼくは、そんな風に、村上春樹を味わってきたし、その意味で、彼の物語や文章を愛しているような気がする。