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アーレントの「活動」、そして大塚英志と東浩紀

大塚英志東浩紀の「リアルのゆくえ」という対談集を読んだ。大塚さんの村上春樹論が面白かったので、その延長で、昔買って、書棚の隅に置きっぱなしになっていた、彼の、ストーリーメーカーやら、この対談集やら、引っ張り出して来て、週末読みふけった。その中で、若い世代の中心となっている東浩紀が、ポストモダン的な、底の抜けた世界という現実を、不必要な期待感なしに、リアルに直視しようというのに対して、彼らのそういった「相対論的」アプローチが結果として現状追認的になり、「権力的な」運動に受動的に加担しているということを、ねちっこく批判するのが面白かった。

これほど、ねちっこい絡みが活字化されたものは、初めて読んだ。最後は、東さんも、人格否定だとキレていた。

大塚さんは、底のぬけた世界に対する感覚を相当早い時期から感じていた人だし、東さんの世代の一種のreference pointになってきたような論客である。しかし、その彼が、この日本でポストモダンを語るのは十年早いという実践意識を持っているのだ。この国では近代すらできあがっちゃいない。その実践意識と、東さんの世代的現実感が空回りするのが壮絶に面白かった。

思想ついでにと言うのもなんだが政治思想の研究者の仲正昌樹さんの「今こそ アーレントを読みなおす」という新書を読んだ。

近代といえば、市民による公共性というのが、欧米思想だ。フランス革命を否定し、アメリカ革命を肯定した、不思議な思想家ハンナ・アーレントを仲正さんはどう読んだかという本だ。

1Q84 との因縁じゃないが、ぼくがアーレントを読んだのは、1984年だった。彼女の「革命について」。ちょうどこの年、ぼくは、フィールドワークで、イランに数か月滞在した。イラン革命とは何かを考えるために、ぼくはアーレントのOn Revolutionを読んだ。それでイラン革命が読みやすくなったわけじゃなかったが、フランス革命を否定するその思考の流れだけははっきりと記憶している。

彼女の考え方を理解するには、まず、ポリス的社会を範型とした「人間の条件」を理解しなければならない。

① 労働(labor);人間の肉体の生物学的過程。人間の肉体が、生命として生きていくのに必要なものを作り出す過程。
② 仕事(work):自然の過程には属さない人工物を生み出し、自然環境とは異なる「人口的」世界を構築する営み。家具や機械、芸術作品などの作品を作り出す営み。
③ 活動(action);(物理的な暴力によるのではなく)言語や身振りによって他の人(の精神)に対して働きかけ、説得しようとする営み。

そして人間らしさというものは、この活動という行為の中にこそ出現するというのがアーレントの独特な考え方である。

そして、アーレントにとっての「政治」というものも、この活動から派生することになる。

「近代的な理解では、“政治”とは、異なった利害(interest)、特に経済的利害を有する人々の間で衝突が起こらないよう調節し、その上でみんなの共通の利益になりそうなことを公の目標として設定し、追及する営みである。妥協の策と言ってもよい。

(略)

それに対してアーレントが古代の「ポリス=政治的共同体」にその原型を求めている「政治」とは、そういう物質的な利害関係やしがらみから「自由」な市民たちが、自分のためではなく、「ポリス」全体にとって何が善いことであるか(=共通善)について討論(活動)し合う営みである。この「政治」の「活動」において、各市民は言語を通してお互いを説得する技を磨くと同時に、他者のパースペクティブから「物を見る」ことを学ぶ。相手の視点から物を見ることができなかったら、相手を説得することができないからである。「政治」の討論という形で進行する「活動」に従事することで、「複数性」の余地が広がり、「市民」たちは「人間らしさ」を身に付けるのである。

アーレント自身は、「社会的領域」において人々が私的利害を中心に、共同で行動するようになったことをかなり否定的に見ている。アーレントにとって、「人間」らしい「活動」はあくまでも、物質的利害関係から切り離されて、討論の技の洗練に専念できるポリス的な「公的領域」においてのみ成立する。「社会的領域」では、自らの利益だと思うものを追及する各人の行動は、次第に均一化していき、「活動」の不可欠の要件である「複数性」は失われる傾向になる。」

アーレントにとっては、「複数性(plurality)」が保たれてはじめて人間の社会と呼び得るのだ。そしてこういった複数性は、個別の経済的利害関係を離れた人々による、共同善についての果てしなく続く討議こそが、政治と人間の本質なのである。

経済的利害などをめぐる議論は、必然的に妥協が要求され、結果、同一化が促進されることになる。複数性を失った人間たちは、もはや、人間と呼ばれるよりは、「動物化」していくことになる。

全体主義の起源となるのは、ユダヤ人などの「他者」を媒介として強化されるこういった「同一性」の論理が、国民国家、資本主義、帝国主義と経由して強化されていくことによってであると仲正さんは読み解いていく。

資本主義の論理が、共同体的な価値を破壊する過程で、アトム化した諸個人を全体主義へとまとめあげていくのは、表面的な復古主義国粋主義では不足である。彼らがその一部であると安住できるような一貫した「世界観」が呈示され、大衆が組織化されなければならないのである。

仲正さんが引用する、アーレントのこんな部分を読むと、そのリアリティにどきりとさせられる。

全体主義運動は・・・首尾一貫性の虚構の世界をつくり出す。この虚構の世界は現実そのものよりはるかによく人間的心情の要求に適っていて、ここで初めて根なし草の大衆は人間の想像力の助けによって世界に適応することが可能となり、現実の生活が人間とその期待に与えるあの絶え間ない衝撃を免れるようになる。運動が鉄のカーテンを張りめぐらす権力を握り、現実の中にうちたてたトータルな空想世界の怖るべき静寂を外界からの僅かな物音にも邪魔されないように守れるようになる以前から、全体主義プロパガンダは大衆を空想によって現実の世界から遮断する力をすでに持っている。不幸の打撃に見舞われるごとに嘘を信じ易くなってゆく大衆にとって、現実の世界で理解できる唯一のものは、いわば現実世界の割れ目、すなわち、世間が公然とは論議したがらない問題、あるいは、たとえ歪められた形ではあってもとにかく何らかの急所に触れているために世間が公然と反駁できないでいる噂などである。(大久保和郎・大島かおり訳)」

全体主義を回避するためには、個々人がそれぞれの世界観を持つことは不可避だが、それが「現実」に対する唯一の説明でないことを認めなければならない。複数性を自覚すれば、アーレントの「全体主義化」の罠に取り込まれることはないだろう。

しかし、「他の物語の可能性を完全に拒絶すると、思考停止になり、同じタイプの物語にだけ耳を傾け、同じパターンの反応を繰り返す動物的な存在になっていく。」

大塚さんの苛立ちは、こういった動物化していくプロセスを、誰よりも、深く認識できる「知識人」である東さんがそれを事実として淡々と、宿命として提起することで立ち止まるという姿勢に対して向けられている。

その意味では、東さんの人格非難だという叫びはあたっているような気がする。

アーレント的な、共通善をめぐる永続的な議論という意味での「活動」ということに対して東浩紀という人はどのように考えているのかを知りたいと思った。