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村上春樹 目じるしのない悪夢

村上春樹が、オウム事件に直面して、尋常ならざる集中力で書きあげた「アンダーワールド」というノンフィクション作品がある。事件に出遭った人々への無数のインタビューによって構成されている。その「アンダーワールド」の最後に、彼は、「目じるしのない悪夢」というちょっと長めのあとがきを載せている。

マスコミの善悪二元論的片付けかたに対する違和感を超えて、「こちら側」=一般市民の論理とシステムと、「あちら側」=オウム真理教との論理とシステムとの「合わせ鏡的」構造を指摘することから、話は加速していく。

「 もちろん一つの鏡の中の像は、もうひとつのそれに比べて暗く、ひどく歪んでいる。凸と凹が入れ替わり、正と負が入れ替わり、光と影が入れ替わっている。しかしその暗さと歪みをいったん取り去ってしまえば、そこに映し出されている二つの像は不思議に相似したところがあり、いくつかの部分では呼応しあっているようにさえ見える。それはある意味では、我々が直視することを避け、意識的に、あるいは無意識的に現実というフェイズから排除し続けている、自分自身の内なる影の部分(アンダーグラウンド)ではないか。私たちがこの地下鉄サリン事件に関して心のどこかで味わい続けている「後味の悪さ」は、実はそこから音もなく湧き出ているものではないのだろうか?」

ちょっと長くなるが、その後、村上春樹が、汎世界化しながら、物語を書き継いでいった理由が垣間見られるような文章を引用しておきたい。

「アメリカの作家ラッセル・バンクスは小説『大陸漂流』の中でこのように述べている。

「自我より大きな力を持ったもの、たとえば歴史、あるいは神、無意識といったものに身を委ねるとき、人はいともたやすく目の前の出来事の脈絡を失ってしまう。人生が物語としての流れを失ってしまうのだ」(黒原敏行訳)

そう、もしあなたが自我を失えば、そこであなたは自分という一貫した物語をも喪失してしまう。しかし人は、物語なしに長く生きていくことはできない。物語というものは、あなたがあなたを取り囲み限定する論理的制度(あるいは制度的論理)を超越し、他者と共時体験をおこなうための重要な秘密の鍵であり、安全弁なのだから。

 物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは息をするのと同じように、間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、同時にあなたは客体である。あなたは綜合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実体であり、同時にあなたは影である。あなたは物語を作る「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレーヤー」である。私たちは多かれ少なかれこうした重層的な物語性を持つことによってこの世界で個であることの孤独を癒しているのである。

 しかしあなたは(というか人は誰も)、固有の自我というものを持たずして、固有の物語を作り出すことはできない。エンジンなしに車を作ることができないのと同じことだ。物理的実体のないところに影がないのと同じことだ。ところがあなたは今、誰か別の人間に自我を譲り渡してしまっている。あなたはどこで、いったいどうすればいいのだろう?
 あなたはその場合、他者から、自我を譲渡したその誰かから、新しい物語を受信することになる。実体を譲り渡したのだから、その代償として、影を与えられるー考えてみればまあ当然の成りゆきであるかもしれない。あなたの自我が他者の自我にいったん同化してしまえば、あなたの物語り、他者の自我の生み出す物語の文脈に同化せざるを得ないのだ。

いったいどんな物語なのだろう?

それはなにも洗練された複雑で上等な物語である必要はない。文学の香りも必要ない。いや、むしろ粗雑で単純である方が好ましい。更に言えば、できるだけジャンク(がらくたま、まがいもの)である方がいいかもしれない。人々の多くは複雑な、「ああでありながら、同時にこうでもありうる」という総合的、重層的な、そして裏切りを含んだ、物語を受け入れることに、もはや疲れ果てているからだ。そういう表現の多重化の中に自分の身を置く場所を見出すことができなくなったからこそ、人々はすすんで自我を投げだそうとしているのである。

だから与えられる物語は、ひとつの「記号」としての単純な物語で十分なのだ。(略)

麻原彰晃にはそのようなジャンクとしての物語を、人々に(まさにそれを求める人々に)気前良く、そして説得力をもって与えることができた。彼自身の世界認識がおそらくは、ほとんどジャンクによって成り立っていたからだ。それは粗暴で滑稽な物語だった。部外者から見ればまさに噴飯ものとしか言いようがない物語だ。しかし公正に言って、そこにはひとつだけたしかな一貫したことがある。それは「何かのために血にまみれて闘う攻撃的な物語だった」ということだ。

(略)

それがオウム真理教=「あちら側」の差し出す物語だ。

(略)
しかしそれに対して、「こちら側」の私たちはいったいどんな有効な物語を持ちだすことができるだろう?麻原の荒唐無稽な物語を放逐できるだけのまっとうな力を持つ物語をサブカルチャーの領域であれ、メインカルチャーの領域であれ、私たちは果たして手にしているだろうか?

これはかなり大きな命題だ。私は小説家であり、ご存じのように小説家とは「物語」を職業的に語る人種である。だからその命題は、私にとっては大きいという以上のものである。まさに頭の上にぶら下げられた鋭利な剣みたいなものだ。そのことについて私はこれからもずっと、真剣に切実に考え続けていかなければならないだろう。そして私自身の「宇宙との交信装置」を作っていかなくてはならないだろうと思っている。私自身の内なるジャンクと欠損性を、ひとつひとつ切々と突き詰めていかなくてはならないだろうと思っている(こう書いてみてあらためて驚いているのだが、実のところそれこそが、小説家として、長いあいだ私のやろうとしてきたことなのだ!)」

大きな物語に対する信憑がなくなったあと、底がぬけた世界の中で、人はどのように生きていくのか。コミュニケーション不全の中で、どのような公共性は可能なのか。いろんなことを考えさせられる文章だ。