21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

1Q84はスターウォーズ

青山の国連大学の裏の方にある、青山ブックショップにいつものようにふらっとはいったら、店員が販売用の特設テーブルを忙しそうに設営していた。村上春樹の新作らしかった。1Q84という不思議なタイトルの本が2冊、店頭に並べられ始めた。店内放送で、本日より、村上春樹の新作が販売になりますというようなことが流れたような気がする。

ぼくは、一度、手に取ったあと、Book1と書かれたその本を、棚に戻し、別のセクションでしばらく立ち読みをした。何度か、その棚に戻っては、その厚みを確かめた。

すんなりと、買おうとは思えなかったことを記憶している。持ち歩きやすいことが、本を購入することのかなり大切な部分になってからもう何年もたつ。ハードカバーよりもソフトカバー、文庫、新書。大澤真幸ナショナリズムの本が気になるのだが、あまりに厚すぎて手が出ないでいる。同じ値段でもいいから、ソフトカバーや文庫にでもしてほしい。

でも、村上春樹の新刊に二の足を踏んだのは、それだけじゃなかった。

しばらく、店内を物色し、気にいったものがなかったので、一度店を出かけたら、店の入り口のところにも、この本が並んでいた。

思い切って、表紙にQが緑色で書かれているBook1を手にとって、カウンターに向かった。

Book1だけを買った。その時点では、すべて読み終わることができるかどうかが定かではなかったからだ。

地下鉄の座席に座って、早速ページを開いた。

「タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェックの「シンフォニエッタ」。渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ。運転手もとくに熱心にその音楽に耳を澄ませているようには見えなかった。中年の運転手は、まるで舳先に立って不吉な潮目を読む老練な漁師のように、前方に途切れなく並んだ車の列を、ただ口を閉ざして見つめていた。青豆は後部席のシートに深くもたれ、軽く目をつむって音楽を聴いていた。」

冒頭から、村上春樹的な文体だ。その後、「舳先に立って不吉な潮目を読む老練な漁師」に導かれるように、数日のうちに、Book1を読み終え、当然のことながら、読み終える前にBook2を買って、二巻目もそれほど間を置かずに読み終えることになった。

読んでいる間も、今回の本が、猛烈な売れ行きを示していることが、マスメディアで報じられるようになった。そして、店頭からBook1を中心に姿が消え、それがまた、マスコミの不思議な興奮を煽った。外資系のつまらないアイスクリーム屋のベタなマーケッティング戦略の意図よりも、それがベタに成功しているということ自体がひどく自尊心を傷つけるとでもいうような感じがその後しばらくの間世間を覆っていた。

結局、この本は200万部を超える大ヒットになった。

世の中は、本の内容よりも、この本が200万部売れる現代社会をめぐる言説であふれかえっている。

Book2を読み終えたあとも、ぼくの中からは言葉が出てこなかった。重い本を外出するときにも持ち歩いて、一気に読み終えたぐらいだから、彼の文章の世界にひたったことは事実だった。読んでいる時の充実感に比べた、読後の空虚感。何かに似ているとは思ったが、それを言語化することができなかった。そして、理由はわからないが、それを言語化するのを厭う気持ちがかすかにあったような気もする。

金曜日に新宿のブックファーストで、大塚英志の「物語論で読む村上春樹宮崎駿」という新書を買った。スターウォーズ化する日本という帯が目をひく。

地下鉄の中で、読み始めた。

こんな一行が目をひいた。

村上春樹という作家は常に何かを仮想しているのではないか」

すぐに、大塚のロジックの流れに引き込まれた。

彼は、柄谷行人サブカルチャー文学ないしはジャパニメーションの世界化に関して、当時短く言い捨てた言葉から、出発する。

曰く、それが世界に届くのは「構造しかないからだ。」

この言葉から始まり、彼の物語分析を通じて、村上春樹宮崎駿という世界化した日本の作家を丹念に腑分けして、村上春樹という作家、そして村上春樹という作家が200万部売れる日本、そしてそれを包摂する80年代に生じた「文学のグローバリズム化」というものへの魅力的な仮説を展開している。

世界化した日本文学はみな、物語構造が鮮明と大塚は言う。川端、しかり大江しかり。ただ村上春樹において、物語構造の徹底化とでもいうべき事態が生じている。

1920年代のソビエトで成立したロシア・フォルマリズムに起源を持つらしい、物語の構造論は、表面上は異なる登場人物やストーリーによる民話が、文化圏あるいは人類普遍に共通する構造に支えられているという考え方だ。

蓮實重彦たちは、こういったアニメや吉本ばなな村上春樹のブームに対して、いらだちを隠さなかったという。

なぜ凡庸な構造からの解放を目指した文学が、喜々として、凡庸な単一構造に自ら回収されようとするのか。

伝統という凡庸で無自覚的な装置からの人間の解放だった「近代」が終わり、「大きな物語」がすべて崩壊した後に我々は生きている。大塚はこの不在を埋め合わせるために、個別の人々が自前の物語を安易に生成するようになるのではないか、そしてそういった物語は物語論的な意味での構造によって支えられるのではないかという、現代の評論的洞察の先駆的な活動を行ってきた。こういった物語をめぐる「自給自足」を彼は「物語消費」となづけた。インターネットがそのシステムを現実化していった。

「大きな物語の終焉」を補うように、文学的想像力は「架空の年代記」に依拠した、ガンダムしかり、村上春樹中上健次しかり。そして、個別のフェイクの物語は暴走し、現実に直接に繋がろうとして、オウムという事件を引き起こした。

村上春樹は、その陳腐な物語の暴走を、自らの鏡像のように苦くとらえたと大塚は、「アンダーグラウンド」を引用しながら、指摘している。

彼は、自分の物語と同じように、ガラクタで組み立てられたフェイクな構造を持つオウムの暴走の可能性に愕然としたのだ。大塚は、アンダーグラウンド後の、こういった村上の自覚を評価していたように記憶する。

村上春樹を世界化したその構造とは、ハリウッド的だというのが、『羊をめぐる冒険』についての詳細な物語分析を通じて、大塚が証明しようとしていることだ。

そして、彼が、村上をそれなりに評価していることが前提ではあるが、かなり執拗に強調しようとしていることがある。

村上春樹が、自分をとりまく世界の空気を吸いながら、無意識に紡ぎだした物語が、キャンベルの神話論を祖形として極めて意識的に組み立てられたハリウッド的、ルーカス的、スターウォーズ的物語に似ていると言いたいのではない。むしろ、スターウォーズのシナリオが外国語のように取得したその構造を意識し、それに忠実に物語られるのと同様に、村上春樹も、意識的に、この「構造」をなぞっているはずだというのが、大塚の主張である。

「このように『羊をめぐる冒険』は、『千の顔をもつ英雄』と正確に対応している。少なくともぼくにはそう思える。それは繰り返すが村上春樹の小説をキャンベルによって解釈したのではなく、『羊をめぐる冒険』がキャンベルの神話論に従って「物語論」的に物語られているからである。」

柄谷行人が「構造しかない」と言ったのは文学の「スターウォーズ化」であり、文学のグローバルスタンダード化だった。かくしてグローバルスタンダード化した物語を採用した村上も宮崎も汎世界化することになる。

しかし、そこで援用される物語には不可避的に主体や自己というポストモダニズムが解体したものが、否応なく復活してしまうことになる。

伝統という変更不能のアーキテクチャからの解放だった、自覚的近代のもつ重みに耐えかねて世界はポストモダン化した。しかし、「大きな物語の不在」を埋め合わせるために、人々がオープンソース的に試みた結果は、ガラクタ細工を古臭い物語という磁力が吸いつけた醜悪な姿をしていたのだ。

それがオウムという物語だったのである。そして、村上春樹は、その「構造」の支配や必然を自覚しながらも反物語的なふるまいを続けてきた。大塚の見立てによると今回の1Q84において、村上のそういったふるまいが決定的に変化したのだ。文学や近代小説の無効を意識しつづけてきた、村上が、本気で近代小説を復興しようとしているのだと。

「しかし、本来復興されるべき「近代的個人」や「歴史」はそこに代入されない。ただ「文学」が自分の構造=物語に「憑依」してくれると村上春樹は信じている。

私は超越者の声が聞こえる。何故なら私は文学だからだ。『1Q84』とはつまりはそういう小説であり、麻原と『1Q84』がどう違うのかといえば『1Q84』は小説でしかない、ということだ。それだけは救いである。」

1Q84スターウォーズ化し、それを村上が隠すこともなくなったとすれば、この物語は書き継がれていくことになるのだろう。だから、ぼくは、読み終わった、Book2の印象的な部分を書きこむのはやめた。しかし、大塚のこの最後の文章の方が、ぼくには、エキサイティングだった。

さっきの読後の空虚感が何に似ているか。はじめはコンピュータゲームかと思った。ウィニングイレブンをプレイしている時の良くできたゲームの持つ充足感。そしてスイッチを切った後の空虚感。しかし、良いゲームは、スイッチを切ったあとにも、身体の中に、ビットが走る肉体的残像が残っている。

そうだ。この読後感は、映画だ。それも、ぼくが一番好きな、ウェルメイドなハリウッドのミステリーの持つ充足感と空虚感。マンハッタンの街路や、人々の息遣いと、登場人物の心の生き生きとした襞が、一つの類型が、無限な微妙な変化で物語られるハリウッドのミステリー映画。シャーキーズマシーンのようなとでもいうか。

そうか、村上春樹は、シャーキーズマシーンか。今はない、新宿のローヤルで見た、米国B級ミステリー映画を見ている時の充実と見終わったあとの空虚にそっくりなんだ。