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フェイスブックは同窓会を殺すか

ツイッターの持ち始めた力のことを考えていたら、当然、似たような新興勢力である、フェイスブックのことが当然視野に入ってくる。日本でもmixiというSNSがどんどん拡大しているようだ。日本版は、誰かにinvitationをもらわないと、参加できないらしいので、あまり若者の友達がいるわけでもない、ぼくにとっては、いまだ他人事だ。実際、こういうコミュニケーションの中で育ってきたDigital Nativeじゃないから、invitationもらったからといって、実名で、そういうネットワークに入るかというと、疑問だ。技術の問題より、文化的な相違や世代的な相違の方が、ウェブサービスがどのように発展進化を遂げるかには重要なのだ。

タイムマガジンにHow Facebook Is Affecting School Reunions(フェイスブックは、どのように同窓会に影響を与えているか)にというコラムが載っていた。
http://www.time.com/time/printout/0,8816,1904565,00.html

人気者のあいつはどうなったか、一番美人の彼女が太ったって本当かというような会話が、高校や大学の同窓会をもっとも賑わしたトピックだった。

何十年間も、同窓会の風景は同じだった。

でも、フェイスブック、リンクドイン、ツイッターやその他のインターネットサービスを通じて、いつでも昔のクラスメートを見つけることができるようになったので、大学や高校の同窓会組織のような既存団体の今後が危うくなっている。

1998年に、メリーランド州のある高校の10年目の同窓会を開いた時には、インターネットは人を見つけるのにそんなに役立つ代物じゃなかった。現実には、口コミ、新聞広告、郵便を同級生の両親のところに送るなどの手段を使うしかなかったのだ。

ところが同じ高校の20年目の同窓会となると、幹事には強い味方ができた。フェイスブックだ。このサイトを通じて、幹事は前回たどりつけなかった多くの人々とコンタクトすることができたのだ。20周年のパーティには大西洋を渡って、当時イタリアからやってきた交換留学生までが参加したのだという。

フェイスブックは、同窓会の一種の予告編のようなもので、事前に同級生たちの今の生活をオンラインで見ることができたので、誰がうまくいっていて、誰がうまくいってなくて、それを他の誰が喜んだり悲しんだりしているかはともかく、同窓会前に興奮がどんどん高まったのだという。

でも、こういう技術進歩のわりを食うひとがいるのは、世の常だ。同窓会をアレンジするのを本業としていた会社のサービスは、フェイスブックで事前に150人も参加者が決まり、場所や、イベント内容の好みまで決定できる時代には、必要とされなくなるのだ。

大学の同窓会組織も同じ問題を抱えている。

「学生たちは、フェイスブックマイスペースやその他のサイトを通じて、既に十分な繋がりを確立して社会に出ていくのが普通になった。20年前と違って、誰かとコンタクトを取るのに、いちいち同窓会事務所電話をする必要はなくなったのだ。」

たしかに、フェイスブックの同窓会情報を見たら、知っている人が来ないので、行かないという人が現れるというマイナスもあるだろうが、これは、純粋に新しいテクノロジーの問題とも言い切れない。

でもSNSが昔懐かしい同窓会という仕組を根こそぎ破壊してしまうというのも考えすぎだ。
人々の懐かしいという想いはなくならないからだ。フェイスブックで、昔の親友に双子が生まれたことがわかったとしても、バーチャル空間で、肩を組み合って、大学の近くの居酒屋で大酒を飲むことは不可能なのだ。

インターネットはただ、パワーを学校や同窓会という組織から、同窓生たち個人にシフトさせただけなのだ。フェイスブックで同窓会が作れる時代には、郵送されてくる同窓会のお誘いや、よそよそしいEメールや、業者からのサービス勧誘の必要はなくなるのだ。

フェイスブックで、同窓会の集まりについての問い合わせが寄せられるという場合もある。実際の同級生が集まる同窓会という仕組自体絶対になくならない。なんといっても、人間は相手の顔を眼の前で見たいと思う生き物なのだ。同窓会に来ない人は、フェイスブックがあろうとなかろうと来ないのだ。

ただ、切実なのは、大学の同窓会組織だ。フェイスブックの台頭の結果、おそらく、寄付金集めが難しくなるはずだ。

同級生と繋がるための不可欠のデータを独占した時代は終わり、同窓会組織の差別化要因がなくなると、寄付する学生のインセンティブが薄れるはずなのだ。

むしろ、同窓会組織は、寄付金集めにどうやってフェイスブックを活用するかを考えなければならなくなるのだろう。(以上)

アメリカの青春映画でみた、ダンスパーティなどの社交の場面が思い出される。子供の誕生日を家族総出で行うという、親(特に外国人)にとっては、頭を抱えるような難題。アメリカ的社交に、SNSというウェブサービスが、一種のTwistをかけていっている。実際、PCも携帯電話もビデオもない時代に、青春期を過ごした世代にとっては、こういった社交性は、リアルな世界だろうが、バーチャルな世界だろうが同じだ。同窓会に来ない奴は、何があろうと来ないのだ。いずれにせよ、ぼくたちの世代は、おそらく死ぬまで、このSNSという仕組には違和感を持ち続けるだろう。ぼくたちは、高校を卒業するとなかなか会えなくなることに胸を痛めた「白線流し」的情緒の世代なのだ。ぼくたちの子供の世代は、Digitalな環境の中に育った人たちだ。おそらく、彼らなりの日本文化の色をそのアーキテクチャーには染み込ませながらも、独自の社交文化を、この世代が作り出していくのだろう。