パラグアイ戦 日本はどこまで進化しているか
アジア予選が始まるので、J1がインターバル期間に入った。J2の柏、横浜、新潟など気にかかるチームの試合のどれかをリアルタイムで観戦しようかと思ったが、残暑疲れもあって、どうもその気にならない。
しばらく明日のルバンカップのアウェイでの2nd legの広島戦をどうにかして見られないかとウダウダと土曜日の午後を考えていた。スカパにこれだけのために1か月だけ入る、五反田のスポーツバーに観戦に行く等々。しかし今更ながら、DAZNに慣らされた身には、ピンポイントでルバンカップだけのためにCSに加入する気にはなれなかった。スポーツバーだが、どうも、かなり混雑する可能性が高いので予約がオススメとかいう情報に若干うんざりした。
そんなウダウダにもあきて、パラグアイとのフレンドリーマッチのことを考えてみた。
興行的に意味がないとは言えないし、サッカー人気がかなりの部分、Jリーグというよりは代表人気に支えられているという現実もあるのを否定する気はない。
ただ日本代表が世界的に強くなって、いつかはワールドカップのベスト8、ベスト4、優勝への道を目指すという目的からみてどうなのか。
ちょっと古くなったが、サイモン・クーパーの、『「ジャパン」はなぜ負けるのか』という面白い本がある。
日本が強くなるためにはどうすればいいのかという事に関して、クーパーの答えはいたってシンプルである。
世界の最高のサッカーは西欧で行われている。だから、いかに西欧の最高のサッカーからどうやって効率的に学ぶかであると。
単刀直入に言えば、西欧の最高のサッカーを知っている監督を輸入することだというのが彼の答えだ。
この本が書かれた2009年だから、日本代表が岡田監督で、南アフリカ開催のワールドカップを目指していた時代だ。
西欧で最高のサッカーが行われている理由を、クーパーは極めて説得力のある形で説明している。
西欧各国のサッカーが濃密にネットワーク化されていることがその主要な理由だ。
「ワールドカップの行われたドイツから飛行機で2時間半以内で行ける円の中に、およそ20の国があり3億人が住んでいる。地球上で最も濃密なネットワークだ。」
欧州で生まれた科学革命がまたたくまに西欧全体に広がっていったのと同じメカニズムが欧州統合の影響もあって加速度的に西欧のサッカーのレベルを上げていったというのだ。サッカーの最前線で生まれた最新技術が選手、監督の自由な移動を通じてまたたくまに共有されていくのである。
バルセロナ、バイエルンミュンヘン、マンチェスターシティなどを率いて最高のサッカーという未踏の領域を常に切り開いてきたGuardiola曰く
「アイデアは他の皆に属していて、私はできるかぎりそういったアイデアを盗んできた。」
その意味で最高のアイデアを盗むのに世界中で最も適しているのが西欧なのだ。
(日本の中には、ブラジルのようなサッカーをしたいという、漠然とした気分がある。それがジーコ代表監督という形で現実化した。クーパーは、ブラジルもまた西欧のようなサッカーを目指しているのだから、西欧での経験のない監督を招聘するのは無意味だと断定する。)
日本となると、近接地域に切磋琢磨できるサッカー大国は韓国だけである。習近平の中国が、その独裁的イニシアティブでいつ、どこまでそのレベルに近づいてくるのかはまだ未知数だ。
しかもこの韓国、中国との間に、いまだに歴史的課題を残している中、アジアに最高のサッカーが生まれてくる具体的な可能性を想像するのは難しい。
とすれば、クーパーの解である西欧の知の移植というのはひきつづき最も有効な手段なのだろう。クラブチームのレベルで、この課題にもっとも積極的に挑戦しているのはヴィッセル神戸だ。個別のチームに対する好き嫌いは別として、彼らの挑戦が挫折して欲しくないと思うのには、こういう背景がある。
この2009年時点で、彼の眼に映った、海外からの監督に対する漠然とした忌避観や、Jリーグの成功による選手の海外挑戦の気運の衰えなどへの懸念を隠さない。
その当時に比べれば、今回のパラグアイ戦の代表メンバーはほぼ欧州でプレイしている選手で占められている。その意味では、欧州の最高のサッカーへの接続性は明らかに高まっている。
【ハイライト】キリンチャレンジカップ2019 日本代表vsパラグアイ代表(9/5@鹿嶋)
森保監督が就任した時には、前任のハリルホジッチとサッカー協会のよくわからないコミュニケーションなどにうんざりしていた日本のファン(僕も含めて)は皆、森保代表監督を歓迎した。
クーパーならば今の日本代表のこの状況をどのように評価するのかが知りたいと思った。
森保代表監督の能力は、クーパー理論に言う西欧の最先端スキルをどこまでキャッチアップしているのだろうか。東京オリンピック、カタールでのワールドカップを経て日本代表のサッカーはどのように進化していくのだろうか、興味はつきることがない。
パラグアイ戦を日本のサッカーの進化という観点から見るという最初の問題意識からすると、答えはほぼ無意味に近いとなるのだろう。
代表への投資という観点からは欧州でのフレンドリーマッチを行うことにこそ意味があるはずだ。
韓国代表のトルコでのグルジア戦には強化という点で遥かに意味があるような気がする。
コンディションの良くない強国相手にホームで勝って気勢を上げるよりは、アウエーという厳しい環境で同レベルの国と戦う方が経験値を上げるのは明らかだ。
サッカー協会が過度に興行に走るのは本質的な意味で本末転倒だ。むしろアウエーの試合(A代表だけではなく)を広く視聴できるようにするための施策に投資を行う等、ファンベースの育成と日本のサッカーレベルの向上を目指すことが彼らの使命であり、から騒ぎをすることではないはずだ。
ワールドカップ歴代王者
開催年 | 開催国 | 優勝国 | 準優勝国 | |
1930 | アルゼンチン | ウルグアイ | アルゼンチン | |
1934 | イタリア | イタリア | チェコスロバキア | |
1938 | フランス | イタリア | ハンガリー | |
1950 | ブラジル | ウルグアイ | ブラジル | |
1954 | スイス | 西独 | ハンガリー | |
1958 | スウェーデン | ブラジル | スウェーデン | |
1962 | チリ | ブラジル | チェコスロバキア | |
1966 | イングランド | イングランド | 西独 | |
1970 | メキシコ | ブラジル | イタリア | |
1974 | 西独 | 西独 | オランダ | |
1978 | アルゼンチン | アルゼンチン | オランダ | |
1982 | スペイン | イタリア | 西独 | |
1986 | メキシコ | アルゼンチン | 西独 | |
1990 | イタリア | 西独 | アルゼンチン | |
1994 | アメリカ | ブラジル | イタリア | |
1998 | フランス | フランス | ブラジル | |
2002 | 日本、韓国 | ブラジル | ドイツ | |
2006 | ドイツ | イタリア | フランス | |
2010 | 南アフリカ | スペイン | オランダ | |
2014 | ブラジル | ドイツ | アルゼンチン | |
2018 | ロシア | フランス | クロアチア |
パラグアイ戦 酷暑にパラグアイもヘトヘト
日本代表のフレンドリーマッチというのは厄介なイベントだ。特に、地元フランチャイズの試合への関心が強くなりすぎて、それ以外の試合に対する思いというものが、薄れてしまっている。その際たるものが、代表選フレンドリーマッチである。さすがにW杯のアジア予選ともなると、相手がどれほど弱小国だとしても、負けたら大ごとという意味においては、試合に対する緊張度が違う。いくぶん強豪チームとの練習試合なら、それと同じような楽しさがあるかと言うと、どうにもそうはならない。
日本代表のコロンビア戦は、鈴木武蔵が初めて代表選出されたということもあって、横浜まで見に行った。しかしあのスタジアムは中段の一部を除いては、きわめて観戦に不向きな場所であることを、日韓ワールドカップのロシア戦以降初めて思い知らされた。とにかくピッチが遠いのだ。しかもあの日はかなり寒く、悪態をつきまくって終わった。
今回のパラグアイ戦だが、再度、武蔵が呼ばれたので、少し楽しみだった。
前半は、森保指揮下でチームらしくなってきたトップチームの前線のパス回しのキレがよく、大迫、南野、中島、堂安の得点意欲も強く、時差ボケと途方もない湿気で体調悪そうなパラグアイを圧倒した。2点とも、見事に、流れからの崩しの得点で、このチームがやりたいことの良い点ばかりが出た展開だった。
柴崎、橋本両ボランチのボール奪取力も良く、オールコートでのプレスが見事に決まっていた。ディフェンスの吉田、富安、長友、酒井も安定した構えで、パラグアイの攻撃をほぼ完全に封じた。
そもそも堅守を売りにするパラグアイなので、前半であっさり2点を取られてまったく良いところが出せなかった。
前半中島がよせばいいのに(笑)、「舐めるような」リフティングをしてからのパスなどを試みて南米プレーヤーのプライドに若干火をつけたせいか、後半のパラグアイは少し息を吹き返したようだった。
殺人タックル炸裂‼中島翔哉が遊び心でリフティングした直後に… 日本代表vsパラグアイ代表
後半になってからの見どころは、ほぼ、久保だけだったかもしれない。
良い選手というものが自分で時間とスペースをコントロールできることだとすると、怒りの南米選手のプレスをものともせず、狭いスペースでボールも奪われず、パスコースを見つけるあたり、テレビのテロップに流れる「日本の至宝」という文句も空虚ではないかなあとニヤニヤしてしまった。
久保 建英 サッカー・キリンチャレンジカップ2019 日本代表xパラグアイ代表 2019年9月05日
ただ後半は、選手を替えまくっての本格的練習試合となってしまったので、見るべきところはなかった。
一つだけ気に食わなかったのは、ヘトヘトの南野を交代させず、ボール奪取やボールの出どころとして機能していた柴崎に、今はセンターバックが定位置の板倉に交代し、結局、武蔵を使わなかったことだけだった。案の定、板倉はミスも多く、ボール奪取の点でも見るべきところはなく、一切、ボールの出どころにならなかった。そして再三、久保などから決定的なパスが出たが、息切れした南野には追い付けず、追加点はならなかった。
まあ元気な武蔵が出たからといって、決定機を外すのはお手の物ではあるのだが、そのあたり、ボランチのバックアップを作っておきたいという監督の気持ちはよくわかるのだが、個人的には納得がいかなかった(笑)
まあまあ面白い試合ではあったのだが、今後も、日本代表のフレンドリーマッチをスタジアムには見に行かないだろうという僕の確信を揺るがすことはなかった。
それなら、仕事休んで、ルバン杯を見に行く!それなら少々遠くても、アウェイの応援に出かける!
武蔵、ソンユン、チャナティップと主力が代表招集されても、アンロペ、福森が決めて勝てるという選手層の厚さが誇らしい。なんとか決勝に行ってくれないだろうか。その場合には絶対に、浦和に駆けつける!(これは僕にとってもっとも望ましい展開)
【公式】ハイライト:北海道コンサドーレ札幌vsサンフレッチェ広島 JリーグYBCルヴァンカップ 準々決勝 第1戦 2019/9/4
チャナティップ、ソンユン。とりわけソンユンの初陣が見たくて、ESPN3だとか海外のウェブサービスを探しまくったが結局テキストでゲーム推移を追うだけに終わった。グルジアに2点を入れられたものの義助が後半から出場して同点で終わったらしい。2点ともソンユンのせいじゃないようだということを確認して一安心した。
西野さんの初陣もドロー。やはりジェイ、武蔵がいないところではチャナティップも大変なんだろうな。
やはり大事なのは地元フランチャイズの選手だ。このあたりだけはいいのか悪いのかわからないが、イングランドのファンと同じレベルに近づいているのかもしれない。
グローバル化はコミュニティクラブを殺す (The Guardian)
週末の地元クラブのワクワクするような勝利の余韻に浸りながら、日課となったThe GuardianのFootball欄でのめぼしい記事探しをした。
Buryの悲劇以来、サッカーのグローバル化と地元ファンというものに切実な関心が生まれたので、嫌でも、BuryやBoltonの続報に目が行く。
Jonathan Wilsonという記者の、サッカークラブのグローバル化は今後も多くのBuryの悲劇を生み出すだろうという、グローバル化の持つ負の面を嘆く記事があった。
それをざっくりと要約してみた。DaZnの到来によって、イマドキのグローバル化のトレンドの中に組み込まれ始めたJリーグ。その齎すプラスもマイナスもよく理解しておきたいとしみじみ感じた記事だった。
https://www.theguardian.com/football/blog/2019/aug/31/turning-clubs-global-brands-means-more-burys
お金や人々の関心が、一握りのグローバルスーパークラブに集中する中で、今や、スタジアムでは多くのドラマや超弩級のプレイが生まれている。ただ問題は、それを達成するための代償が大きすぎることだ。
プレミアリーグがグローバルなマーケッティングを積極的にすすめた結果、英国のスタジアムに、アメリカやインドからのファンが大挙訪れることを否定する気はない。僕の中のリベラルでグローバルな世界観がそれを寿いでいる。しかし心の奥底をよく眺めてみると、このトレンドを心から受け入れられない自分がいる。
僕にとっての地元クラブ、サンダーランドは、そもそも、選択の余地なく、僕の身体の一部となっているのだ。僕の家族も僕自身もそこで育ち、父や友人と若いころからスタジアムに応援に行った記憶がそこここに満ち溢れている。
Sunderland 'Til I Die | Official Trailer [HD] | Netflix
この気分は、合理的というものとはほど遠いかもしれない。過剰に美化された故郷という記憶かもしれない。ずっと昔に、僕たちの祖先がアイルランドやスコットランドから職を求めてやってきて、サッカー場にようやく自分たちの居場所を見つけたというような過去がそこにはある。
サンダーランドとはチーム成績やファンが誰かということ以上に、自分が何者なのかという問いの中心を占めているのだ。
地元クラブ、すなわちBuryやBoltonがなぜ大切かということの理由がそこにある。
だから自分の居場所が大波に押し流されてしまった時の気分は、他にも選択肢のある外部のファンとは同じように語ることはできないのだ。
しかしナイーブなことも言っていられない。
サッカーにとってもお金の果たす役割は大きい。
初期のプレミアリーグを支配していたクラブ、Preston, Sunderland、Aston Villaは、スコットランドのトップタレントを買うことによってその優位性を達成した。
1895年の最初のクラブワールドカップで英国の王者サンダーランドが、スコットランド王者Heartsを5対3で破った。
この時、両チームの22人の選手はすべてスコットランド人だった。
リバプールとチェルシーというクラブが有料でのスポーツビジネスを作ろうとした球場オーナーたちによって設立された。
プロリーグというものもそもそもコミュニティとビジネスの心地よい連携の中で生まれたわけでは決してなかったのである。
しかしサッカーの世界のリッチとプアの格差はいまほどひどくはなかった。
たしかにトップクラスの選手たちが繰り広げる、特にチャンピオンズリーグのノックアウトステージは、未曽有のドラマを生み出している。
しかし問題は、それに価値があるのかどうかだ。
BuryとBoltonでは、誰がクラブを所有できるか、オーナーはどのような行動を義務付けられるかについての規制がほとんどない環境で、特定のオーナーが犯した個別の過ちによって窮地に立ったのである。
しかし彼らを瀬戸際にまで追い詰めた理由は、別に彼らに固有のものではない。
これは全システムに関係する問題だ。
訳知り顔で、92のプロクラブ(それに加えてリーグに属さないプロクラブ)もある国は他には存在しないと指摘する人もいる。
だからこういった運命もある意味避けられないのだと。
しかしこの92のプロクラブの存在こそが、イギリスのサッカーの最大の魅力なのだ。巨大なスーパーマーケットが街角の小売店を飲み込んでいくという経済的論理をサッカークラブに適用すべきではない。
選手、監督、投資、関心が西欧の一握りのリーグの一握りのクラブに吸い込まれていくというのは世界的なトレンドである。アルゼンチンやブラジルリーグの試合を観ると、それらの国のトッププレイヤーの素晴らしいパフォーマンスを知っている者達にとっては衝撃的なほどクオリティが低い。
アフリカのネーションズカップを観戦に行くと、スタジアムが空っぽであることが多い。この大陸では、ゲームを見に行くという文化が消滅してしまっている。サッカー関係者は、欧州で行われる試合をバーやビデオホールの衛星テレビで見るのが好みなのだ。スタジアムにサッカーを見に行くファンのことなど誰も気にもかけていない。
皮肉なことに、英国の小規模クラブへのプレッシャーが、4つの部門すべてにおいて過去40年で観客数がもっとも好調な状況の中で高まっているのだ。
危機の本質はプレミアリーグとその他のリーグのぞっとするような格差から発生している。
1992年に当時の一部リーグ(Divison1)の全チームがリーグから離脱して、現在のプレミアリーグが生まれた。この離脱したクラブの貪欲が今の状況の原因なのである。
これらの離脱したクラブは今、どうなっているのか。外国のオーナー、外人監督、外人選手、そして次第に外人ファンを擁して、イングランドにたまたま拠点のあるグローバルブランドとなってしまったのだ。
他のスーパークラブに比べて、ファンのコミュニティ感覚が強い、リバプールでさえ、お金の圧力からは逃れることはできていない。
とするならば、僕のサンダーランドへの合理的とは言えない情念、帰属意識はこんな現代サッカーのどこに居場所があるというのだろうか。
強いものだけが強くなるという力学を受け容れることなく、グローバル化のメリットを享受することはできないのだろうか。自分たちのコミュニティを破壊することなしに、コスモポリタンになることはできないのだろうか。サッカーゲームやプレイの質は史上かつてない高みに達しているということを否定するつもりはない。ただそれを達成するためのコストがぞっとするほど大きいのだ。(以上)