21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

陸王そしてShoe Dog

陸王という小説、そしてテレビ番組の面白さの大半が、箱根駅伝に代表される陸上競技というものの魅力によるところが大きいのは事実だ。

 

世の中は未曽有のジョギングブームらしく、たまに休日、皇居周りを散歩すると、最新のウェアとシューズを装備したランナーであふれかえっている。散歩者が肩身の狭い思いをするぐらいだ。

 

ただその魅力はスポーツにだけ還元できるわけでもない。

 

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池井戸潤のライトモチーフとでもいうべき、「会社とはだれのものか」というテーマの持つ切実さが背景にある。

 

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世の中は、株主中心主義というものとStakeholder主義の綱引きの中にある。グローバリズムというのも、結局は、「国とは誰のものか」という一回り大きくした同質の問いかけである。

 

陸王の中で経営者は常に、老舗の伝統を守ることと、生き延びることのはざまで苦闘しつづける。しかし老舗の伝統は、つまりは、長年働いてきた従業員の生活をどのように守って行くかという要素が強く、株主利益という面はほとんど強調されることはなかった。むしろ経営者でありオーナーである主人公は自らの蓄えまで投入して、新しい設備投資に乗り出そうとまでしている。

 

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企業とは誰のものなのか。これには完璧な答えなどない。従業員を守るためというのは美談にも、関わるもの万人にとっての悲劇にもなりうる。

 

経営者が思うほど、従業員は会社のことを思っていないというのも、一面の真実である。

 

足袋屋が作ったシューズが陸王だとすれば、Airを開発したのは、ランナーが作った会社だった。

 

軌を一にして、ベストセラーリストに載ったシュードッグというナイキの創業物語は、別の角度から語られた「会社はだれのものか」の物語である。

 

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シュードッグというのは『靴の製造、販売、購入、デザインなどすべてに身を捧げる人間』たちが自分たちのことを呼び合う通称のことである。

Nikeというスタートアップに、こんなシュードッグたちが、ランナーのために最高のシューズを作るために結集して、苦難の道をともに超えていく話だ。

 

始めは、日本メーカーのオニツカのシューズの代理店として創業する。その後、ドラマでピエール滝が演じたような敵役のために窮地に何度も追い込まれるが、そのたびに、最高のシューズを作るという情熱だけに従い、苦難を乗り越え、最終的には世界一流のシューズメーカーにしてアパレルメーカーへと成長していく。

 

Nikeに生命を与えたのも、それを抹殺しようとしたのも日本メーカーであり、その窮地を救うのも別の日本企業(日商岩井)であるという事実に少々驚かされる。

 

 

『私は走ることが好きだが、馬鹿げているといえば、これほど馬鹿げたものもないだろう。ハードだし、苦痛やリスクを伴う。見返りは少ないし、何も保障されない。楕円形のトラックや誰もいない道路を走ったりしても、目的地は存在しない。少なくともその努力にきちんと報いるものはない。走る行為そのものがゴールであり、ゴールラインなどない。それを決めるのは自分自身だ。走る行為から得られる喜びや見返りは、すべて自分の中に見出さなければならない。すべては自分の中でそれらをどう形作り、どう自らの納得させるか、なのだ。

 

ランナーなら誰もがこのことを知っている。何マイルも何マイルも走って走りまくっても、なぜそうするのかは自分でもわからない。ゴールを目指して走り、快感を追い求めているのだと自分に言い聞かせるが、実は止まるのが恐くて走っているのだ。』(シュードック)

 

当然、成長の過程で、常に資金がボトルネックになっていく。成長のために必要な資金を地元の銀行から得ることができないが、自分たちの情熱の拠点としての会社を守ることに対して頑迷ともいうべき執着心に突き動かされるあたりに、中小企業の成長物語としてのリアリティがあふれている。欲しいのは金ではない、しかしやりたいことをやるためには金が必要なのである。

 

Nikeの創業者たちの株式公開というものへの不信感も鮮烈である。

 

『株式の公開は一瞬で巨額の金を生み出す。だが、それは大きなリスクでもある。株式を公開するということは、主導権を失うことでもあるからだ。それは誰かのために働くことであり、いきなり数百、ことによっては数千人の株主の要求に応じなければならず、株主の多くは大手の投資会社になる。株式を公開すれば、一夜にして私たちは自分の忌み嫌っていたもの、これまでずっと避けてきたものになってしまうかもしれない。』(シュードック)

こういったあたりは、他人事としては済ませないリアリティに満ちている。

 

陸王の中で、鋭く、心に刺さってきた場面がある。

 

新しいシューズを開発しようとする足袋屋と、ランナーとしての復活に賭ける若手選手の間をつなぐ、元大手シューズメーカーのシューフィッターが、設備投資の資金調達のリスクが取れずに、サポートを継続することができないと苦渋の想いで告げた経営者に対して発するこんな言葉である。

 

『しかし、だからといって選手に迷惑を掛けるわけにはいかない。彼らは必死なんですよ。生きるために走っているといっていい。生きるか死ぬかの戦いをしている彼らと付き合っていくためには、我々だって同じように生きるか死ぬかの覚悟が必要なんじゃないですか。でなければ、安易にシューズなんか供給すべきじゃない。カネのことはともかく、いまわたしがききたいのは宮沢さんにその覚悟があるのか、ということです』(陸王

 

スポーツに人生を賭けるということは大変なことだと思う。

 

しかし、多くの人間の雇用を作り出し、維持するという経営者の仕事の持つ怖さはそれどころではない。多くの伝統的大企業が、雇用を生み出すという社会的意義と利益を追求するという市場の要請のバランスを取り続ける中で、雇用という魔の中に取り込まれることで、崩壊していく例にはことかかない。

 

個人が自分の夢を追いかけることは美しい。しかし個人の夢が、他人の人生を巻き込んだ瞬間に、現実に取り込まれていく。多数のものによって共有された夢は光と闇をかかえ、経営者はその闇の大きさと深さに常に怯え続けることになるというのは、残念ながら真実なのだ。

 

 

MORIOKAの友人

年末に、大手術をした、大学時代の友人の見舞いに行った。大学で物理学を教えている独身の友人は、術後も、いつもどおりの平穏な表情を浮かべていた。安心した。長く、不眠症等に悩まされているが、彼の内心は単純には外には現れてこない。しかし卒業後何十年もつきあいが続く数名の仲間内の中ではその平静な物腰がずっと愛されている。

 

数年前に、皆で彼の故郷を訪ねた。岩手県盛岡市だ。

 

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ユーミンの「MORIOKAというその響きがロシア語みたいだった」というフレーズや、宮沢賢治やら、長い間、一度は訪れたいと思っていた街だった。


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彼はいつもの平静さと、驚くべき周到さで、僕たちをたっぷりともてなしてくれた。古い温泉宿の窓から見上げた星空や北上川沿いの風景など多くの記憶が残った。

 

お互い、そこそこの齢になったので、こんなことがあると、いきおい会話はこれからどうするという話になる。

 

ぼつりと「そろそろ盛岡に帰りたいと思っている」。

 

「それはいいな。いつでも盛岡に遊びにいけるようになる」。

 

友人の表情の端にほんの少し笑いが浮かんだ。

 

幸田一族の女たちの文章が好きである。その繊細さと清潔さにはまぎれもない一族の文士としての高潔さが受け継がれているからだ。

 

青木玉が盛岡のことを短いエッセイに書いている。

 

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『朝方ひと降りしたそうで、盛岡の街はしっとり空気が冷えていた。雲切れがして日が差し、駅前の街路樹の葉はまだ青く、房になった赤い実は花とは別の鮮やかな色を見せている。聞けばななかまだという。ななかまどは山にある木だと思っていたが、それが並木に使われているのは珍しい。北の土地に育つ木の出迎えを受けた気がした。

 

街の中心部、県庁などの新しい建物が並ぶ通りをちょっと入ると、昔の面影を残した木造の洋風建築物が残されていた。これらの建物を囲んで木々の緑が厚く、新旧がよく調和してゆったりした時を保っている。

 

用が終わって一休みさせてもらった明るい部屋の前を川が流れている。河原が広く、水は寄ったり分かれたりして流れている。土地の方がこの川を鮭がもうじきあがってきますよと言う。鮭の上る川、鮭はこの川上で生まれ遠く旅して、迷わず生まれ育った川の匂いを頼りに戻ってくる。故郷を厚く慕う魚なのだ。ぎゅっと、心を締め付ける情が湧いた。

 

(中略)

 

信号で車が止まった。前方に橋がある。鮭のことが頭にあって、橋に駆け寄って川を見た。都市の川にしては水量が豊かで勢いがあり、水面は強くうねり川底の複雑さが思われる。この川は北上川、さっき見たのは中津川、駅を出てすぐ右手から雫石川の三本が合流して北上川の大きな流れになってゆく。またしても時間があったらと思いながら、御礼を言って駅の階段を駆け上がった。新幹線の窓におでこをくっつけて見損なうまいとした。三本の川は自然に寄り添って遠く流れ去った。盛岡は北の国、人も鮭も、ななかまどの赤い実も、胸に染みる懐かしさである。』

 

三本の川の畔を皆でぶらぶら歩いた時の記憶がよみがえる。この河の畔の街は、よそ者にも得も言われぬ懐かしさを感じさせる街なのだ。

仕事始めの電車の中で陸王のことを考えた

2018年1月5日(金)6℃ 113.12¥/$

 

最近、僕にとっての、フォーマルかカジュアルの違いは、スーツを着るかどうかより、スニーカーか、革靴かで決まる。

 

日頃の運動不足を解消するために、最近は、暇なときも、暇じゃないときでも歩くようにしている。目的地の二駅近く前で地下鉄を降りて歩くことも多い。特にいまのような冬時は、歩いても、汗だらけにならないので、いきおい、歩行数は増加する。

 

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こうなると、革靴の靴底の固さは大問題である。通常の革靴は、長時間歩行用にできていない。「敏腕の」ビジネスマンは、歩く暇も惜しんで、タクシー移動(アメリカならUber移動)するのだから、それはビジネス上はさほど問題にならないのだろうか。

 

僕にとって、家を出る時に、先ず考えるのは、今日は、スニーカーでいいかどうかだ。

 

ドレスコードの吟味はまず靴から始まることになる。

革靴の場合はスーツでも、ボタンダウンにチノパン、ブレーザーあたりでも柔軟に対応可能だ。Corporate Japanのワークスタイルが、中途半端ながら、外面だけでも自由になってきた表れなのだろう。

 

逆にスニーカーを選ぶと、カジュアルのドレスコード(妙な言い方だな)はかなり限定されてしまう。カジュアルライフというのは若者以外には案外排他的なものだ。カジュアルであるための拘束衣(Straight Jacket)のようなことになってしまう。

 

僕のワークスタイルでは、いつも、このスニーカーの時間と革靴の時間の間の綱引き状態が続いている。

 

最近は、革靴の時間が増加気味だ。

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これに対応するため、スポーツメーカーのアシックスの開発した長期歩行に適した、足に優しい靴底のものを愛用するようになった。初めて履いた時に、その劇的な優しさに驚愕した。

 

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このあたりは、マラソンランナーの茂木選手が老舗足袋屋のこはぜやが作った陸王を履いて、フィールドを走った時の感動に少々似ているかもしれない。

 

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去年、人気作家の池井戸潤の「陸王」がドラマ化されたこともあってか、ランニングシューズの厚底と薄底の戦いのことがハイライトされた。世間は未曽有のジョギングブームらしい。年末の箱根駅伝での青学の四連覇などもあって、ランニングシューズ業界に世の中の関心が集まった。

 

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ランニングのみならず、ウォーキングにおいてもこの靴底の問題というのは重要である。

 

日本から遠ざかっているマラソンの金メダルも大事だが、毎日、長距離を歩き続ける、普通の勤め人の生活の質の点からしても、この靴底を巡る熾烈な開発競争にはかなりの社会的意義があることは間違いない。

 

そんなこと考えながら、仕事始めの通勤電車に乗り込んだ。