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21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

種を蒔く人(水上勉「櫻守」)

朝起きたら、まず、アランの幸福論の一章を読むことにしている。

 

第89章の「幸福は徳である」。

 

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アランの幸福論の核心は、幸福になるのは、その人間自身の責任であるだ。

 

他人を幸福にしようなどということに、徒に、時間を使う愚を諫めている。曰く、他人にできるのは、既に幸福になった、その人間の幸福を増すことだけなのだと。

 

マタイ13章に「種まく人の譬え」がある。

http://www.senzoku.org/seisho/mat13.htm


「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」

 

アランは、この譬えの意味は、「砂の中に種を蒔いても何の役にも立たない」ということにあると気づいた。

 

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そして幸福こそが、まさに、力を意味する美しい徳という言葉が示すものなのだ。

 

「全き意味において最も幸福な人は、着物を投げ捨てるように、別の幸福などまったく平然と舷側の外へ投げ捨てる人であるのは自明だからだ。しかし彼のほんとうの豊かさは棄てない。棄てることができないのだ。突撃する歩兵や墜落する飛行士でさえもそれはできない。彼らの魂に親密な幸福は、彼らの生命と同じほど深く、彼ら自身と釘で打ちつけられている。彼らは武器でたたかうのと同じように、自分自身の幸福でたたかっている。そこから、倒れる英雄のなかに幸福があると言えるのである。」

 

おそらくアランの周りには、この徳というものを具体的に体現した人々がいたのだろう。この至言の意味を、一目瞭然で、他人に知らしめるような人生だ。

 

東京で今年の桜が満開だった頃、僕は、『櫻守』という美しい小説を読んだ。水上勉が、日本の桜を守るために、全財産を費やした篤志家竹部の傍らで、その苦闘を支えた職人北弥吉の人生を、流麗な京都弁を駆使して描き出している。

[水上 勉]の櫻守(新潮文庫)

 

Amazon.co.jp: 櫻守(新潮文庫) eBook: 水上 勉: 本


日本の桜を愛し、それを見守り続けた老職人に、死が訪れる。余命を知った男は、妻と、息子に、彼が長年、無償で見守り続けた桜の見える寺に埋葬して欲しいと遺言する。

 

しかし、檀家以外のよそものの埋葬が容易に認められるはずもないと、遺族は、竹部に相談する。

 

「わたしは、正直、北さんがここへ埋まりたいいうて死なはったときいて、えらいこっちゃと思いました。日本は桜の国です。埋まって死にたいと思うような桜は仰山ありますけど、桜の下に埋まって死ねるということは、なかなか出来ることではなく、恵まれた人やなと思いました。北さんは、ここの出の人やない。ただ、ここの桜が好きで、ひまがあると守りにきとられた…それだけの縁どす...お寺の和尚さんや、檀家の有志の方が即座に承知してくれはるとは…わたしも、考えてませなんだ。北さんも北さんなら、村の人も村の人ですよ…桜を守りにきてくれはった職人さんやということで…こんなに親切に埋めてくれはります…わたしの力なんぞやおへんで。北さんの徳ですわ(略)

 

人間、死んでしまうと、なあんも残らしまへん。灰になるか、土になるかして、この世に何も残しません。けど、いまわたしは、気づいたことがおす。人間は何も残さんで死ぬようにみえても、じつは一つだけ残すもんがあります。それは徳ですな….人間が死んで、その瞬間から徳が生きはじめます…北さんを桜の値へ埋めたげようという村の人らも、わたしらも、北さんの徳を抱いておるからこそやおへんか。これは大事なこっとすわ」

 

幸福になるには、先ず、自分の中に、幸福の種を埋めなければならない。そのほかの何を捨てたとしても、捨てきれないものが、その人の幸福であり、幸福の種なのだ。そして幸福の種を一人で黙々と育てる力のことを徳と呼ぶのだ。

 

アランの幸福論を体現する人生が、僕たちのまわりに息づいてた時代が確かにある。もう一度、あたりまえの眼でそれを見回してみるべきなのだ。そして、自分の中に、幸福の種を独力で植えるところからまずは、始めることなのだ。

 

不幸な連中からは逃げるが勝ち!(アラン 「幸福論」)

そこそこ、長く、生きていると、良き哲学というものは実は、良い処世訓であることがわかってくる。

 

しかも、この良き哲学の世界と自然科学では、「進歩」というものに対する姿勢がかなり違っているようなのだ。

 

僕も、世界も、この進歩というものを自明なものと考えて生きてきた。それは否定のできない事実である。

 

世界の方は、常に、当事者が入れ替われるので、この進歩という哲学的/宗教的な御託を後世の人に信じさせることに成功する限りは、この前提もなかなか崩れることはない。

 

ネズミ講のようなもので、新しい人が見つけられる限り、それが詐欺であることはバレないのである。

 

個人は残念ながらだんだん老いてくる。

 

そうとうおめでたい人間でもない限り、自分がかつて信じたことに裏切られるということが増えてくるのが普通なので、進歩と言われても、素朴には信じなくなってくる。

 

古代エジプトの遺跡の中の「最近の若い奴らの文章はなってない」という類の話同様、この人生哲学の分野には、さほど目立った進歩などないのかもしれないと感じるようになってきた。

 

こうなって初めて昔学校の先生方が口をそろえて古典を読めといったことの意味がわかってくる。

 

結局は、時代の風雪に耐えて生き残った言葉の重みなのだ。

 

頭の中を処世訓で満載にして生きて来たわけではないが、さすがに、一種の人生の指針のようなものがぼくにもある。

 

「不幸な人には気をつけろ。自分が幸福じゃない人は、他人を幸福にしようなどとは思わないからだ。」

 

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可愛らしい女優のダンスだけでなく、最近の人気テレビドラマの、逃げることは恥ずかしくないというメッセージは、かくのごとく、僕の心に深く刺さってくるものだったのである。

 

この処世訓は、実は、ずっと、出典不詳だった。まじめな戦後派リベリストだった両親からの一子相伝だったような気もするし、転校を繰り返して、定期的に、そこそこの修羅場をくぐるなかで会得した路上の知恵(Street-smart)のような気もする。

 

しかし喧嘩上等で人生を組み立てて来たようなタイプでもなく、人間との絡み合いよりは、ひとりで本を読むほうが好きだったわけで、どこかで、こんな暗黙知を、言語化してくれる本があったに違いないと思った。

 

しばらくぶりにアランの幸福論を読み直している。かなり繰り返し読んだ本だが、ここ数十年はめっきりご無沙汰だった。

 

 

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最初のページから行くと、名馬が暴れる理由が、自分の影に怯えているのだと、アレクサンダー大王が一発で見抜くという、ほぼ、暗記しているようなエピソードばかりになるので、今回は後ろの方から読んでいる。

 

すると、最後から2番目の「幸福にならねばならない」のこんなフレーズが目に入った。

 

「幸福になることはまた、他人に対する義務でもあるのだ。」

 

世の中には、幸福というものが、外からやってくるものだと待っている人が多いというのがアランの見立てである。そしてこういう人たちに限って、幸福を商品のように値踏みするので、そんな彼らの表情はすぐに、倦怠や軽蔑で一杯になってしまう。そしてこういうひとたちは、「子どもが庭をつくるように、つまらぬもので幸福をつくり出す器用な職人たちに対するいらだちと怒り」があるのだと。こういう人たちは度し難い。だから逃げるしかないんだというのがアランのスタンスである。

 

「自分自身に退屈している人たちをなぐさめることはできない。そのことを、ぼくは経験からよく知っているからである。」

 

自ら幸福になろうとせずに、幸福になることを望む人々が向ける、自分で幸福になった人の悪意から断固逃げることをススメルのみならず、こういう世の中に対して、高らかに告げるのである。

 

「幸福になることはまた、他人に対する義務でもあるのだ。これはあまり人の気づいていないことである。人から愛されるのは幸福な人間である(略)」

 

科学技術がいくら進歩しても、人間の条件の根幹は不変であるという考えを保守主義と呼ぶのならば、ぼくは保守主義である。

 

ネット技術が生み出したのは、アランのほぼ100年前(正確には94年前)の見立てを、ネットワーク/ハードウェア/ソフトウェア上で、増幅した姿に過ぎない。

 

人前で大きな声で主張する気はないが、自分の家族、友人にはこっそり伝えたいのが、繰り返しになるが、「不幸な人間からはとにかく逃げろ」である。これは理屈ではなく、まさに血と汗と涙で培った処世訓なのである。まわりを気にしてはいけない。近づく人間の表情にこういった悪意の影が少しでも見えたら、とにかく、逃げて逃げて逃げまくることである。失うものなど心配してはいけない。とにかく逃げのびることが重要なのだ。

 

こういった幸福になろうとしない人の悪意を甘く見てはいけない。彼らは、結構、長い距離を追いかけてくるものなのだ。それほど彼らは自分の人生にウンザリしているのだ。幸福そうにしている誰かに難癖をつけて、自分と同じ不幸に引きずり込むことだけに暗い熱情を注ぐ人たち、どう考えても、逃げるしかないじゃないか。

 

学生の頃、新入社員の頃、中堅社員の頃と、対人関係で嫌な思いをした後に、独りぼっちで、アランを読んで、思わず、膝を打ち、少しだけ、気分を紛らわせた夜もあったはずなのだ。そんなこんなで、いまだに生き延びているのだから、かなり賞味期限の長い処世訓なのだろう。

 

誰かに伝えておくべきなのは、多分、こういうことなのだろう。

 

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定点観測としての天声人語

天声人語村上春樹はどこか似ている」と、出版者の旧友が言った。リベラルさ?と質問すると、彼は、しばらく考えてから、ほんの少し笑って、

 

「読んでいると、いつのまにか、同じようなスタイルで文章を書いてしまう」。

 

だとすれば、天声人語は、向田邦子にも似ているのかもしれない。

 

 「深代惇郎の天声人語」の画像検索結果

 

過去数十年、朝日新聞を読んでこなかった。そもそも新聞を読まなければ夜も日もあけないような世代でもない。

 

普通にサラリーマンになってから、一種の必需品として経済新聞を購読するようになったが、そこでも熱心な読者ではなかった。

 

最近は、紙で読むことも嫌になって、デジタル読者になった。

 

もともとさほど好きでもなかった経済から関心がどんどん離れていることもあって、思いつきで、朝日新聞のデジタル版を読みはじめた。

 

リベラル軸というものが全世界的に劣勢にあるというのも、自分の中のバランス感に作用したところもないとはいえない。何事につけ、物事が極端に走るのは良いことではないということだけが、僕の人生哲学だ。

 

一強政治に対する反対票として民進党ではなく、共産党に投票するというような。

 

たださすがに赤旗は読む気がしないので、次に、世の中の多数派からは叩かれやすい朝日あたりを読んでおこうという次第となった。

 

しかし単なるバランス感覚だけというのは少し言い過ぎだ。

 

若い頃、天声人語をよく読んでいた。

 

ただ、すべての天声人語というよりは、深代惇郎天声人語

 

 

trailblazing.hatenablog.com

 

彼が、現役で書いていた頃も読んでいたはずだが、当時は、執筆者のことなどまったく知らない。

 

その意味では、彼が急逝した後に、深代名義で出版された天声人語集やエッセイ集によって、天声人語が、当時の自分の「マイブーム」(1997年流行語大賞 By みうらじゅん)になった。

 

とりわけ、深代惇郎の文体の中にある、ロングショットとクローズアップショットの絶妙の組み合わせが好きだった。そしてそこにい差し込まれる、過去、現在、未来の時間の感覚。

 

最近の日課は、複数の新聞をパソコン上で眺め読みしてから、朝日新聞天声人語をじっくりと読むことである。

 

まずは本日の版、そして、次に、英語版で、昨日の天声人語の翻訳。

 

これが案外楽しいし、英語の勉強にもなる。

 

そんなことをしばらく続けていたら、急に、深代惇郎天声人語が読むたくなった。

 

残念ながらまだ電子版にはなっていなかったので、文庫の天声人語集を買って、毎日一本読むことにした。

 

今日の天声人語を読んでから、深代天声人語を読むのである。これがなかなか面白い。

 

面白いだけではなく、過去のことを思いだしながら読む、かなりコクのある定点観測の時間になるのだ。

 

今日の天声人語は、「盆栽から学ぶ」。

 

digital.asahi.com

JRの大宮駅構内で「樹齢870年以上」という威風堂々の盆栽を見たというところから話しは始まっている。大宮で世界盆栽大会が開幕したとか。40か国から愛好家が参加し、日本での開催は28年ぶり。出展者は、現役を退いた男性の楽しみから、若い世代へと広がっていないことを悩んでいる。この「緑のアート」に中国からの関心が高まっているという。そもそも盆栽の起源は1300年前の中国。

 

そして結語。

「松や真柏(シンパク)の盆栽の逸品では、白く堅い独特のうねりに目がとまる。枝先が枯れたものを神(ジン)、幹の一部が枯れたものを舎利(しゃり)と呼ぶ。何ごともせわしない昨今、余裕のない私たちを、盆栽が静かにみつめているような気がする。」

 

 

次に、僕は、深代惇郎天声人語の中の、昭和50(1975)年1月7日付の「緑の自慢」を選んだ。

 

info.asahi.com

 

当時の環境庁の「緑の国勢調査」で、日本全土の開発ブームのせいで、都市部の緑が惨澹たる内容であるという報告を取り上げている。その後、深代は、「ソ連ウクライナ」のキエフを訪問したエピソードを語り始める。その時、「キエフは世界一緑の多い都市です」と聞かされた。確かに目抜き通りの並木の大きさにはびっくりしたと述懐している。この緑自慢について帰国後、知人のソ連通に確かめてみたところ「緑覆率を都市の自慢にするのはソ連の特徴」と教えられることになる。

 

「「所得水準」という金勘定だけで、人間生活の質は分からない。体ごと青く染め上げてくれるような緑陰を歩き、おいしい空気をふんだんに吸う生活はGNPという数字の足しにはならないが、大気汚染の中の冷暖房完備より豊かさがあるのではないか。」

 

と結んでいる。

 

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キエフの巨大並木と、樹齢870年以上の盆栽。

 

コーヒーを一口飲んでから、ゆっくりと味わってみる。そこには40年以上の時が流れている。

 

深代のコラムが書かれた14年後にベルリンの壁が崩れ、その2年後に、ソ連は崩壊した。

 

今や、ウクライナは親ロ、反ロの対立で内戦的緊張の中にある。

 

このコラムの前提にある、金勘定だけではないソ連というのは、理念としてさえ存在しない。

盆栽を眺める中国人の目もいまや「拝金主義的共産主義」という不思議な奇形を前提としたきわめて屈折したものになっている。

 

緑を自慢しているわりには、ロシアの成年男子の平均寿命は相変わらず、先進国では最低水準らしい。おまけに、アメリカの白人男子の平均寿命の急激な低下までが加わった。

 

こんな定点観測にどんな意味があるのだろうかと自問してみた。

 

結局、長い月を経ても、変わらないものが、あるということが大切なのである。

 

長い月日がたっても、変わらない思考のスタイル、形式的なものにとどまらない、行動のスタイル。

 

それが今の日本(大きく出ると、世界)が一番必要としているものである。

 

40年以上離れた、天声人語を毎日、読み続けるということは、それを探す上では、悪くない出発点のような気がするのである。

 

キエフの巨大並木と樹齢870年以上の盆栽の間に、変わらない、行動のスタイルに繋がる何かがあったか?

 

まあ、それは言わぬが花ということで。

 

ところで、最後に、冒頭の友人の洞察は、あたっていただろうか。