21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

荷風はラジオが嫌い (永井荷風「鐘の声」、吉見俊哉「声の資本主義」)

ひどい不眠症に悩まされたことがある。健やかな労働というにはほど遠い、頭ばかりが空走る仕事についていた時分のことだ。文字通り、寝る間も惜しんで、頭ばかり使ったせいで、精神のスイッチが壊れてしまったのである。

 

当時、随分、不眠症の傾向と対策のような本を読み漁った。日曜不眠症(Sunday Insomnia)という症状があるというのを見つけた。

 

私の症状がまさにそれだったのである。

 

病気の原因は簡単で、恒常的な睡眠不足をはらすために、週末に、昼寝をするので、日曜日の夜には寝すぎで眠れなくなっている。にもかかわらず、明日の仕事の心理的抑圧がのしかかってくるため、「眠くない、でも眠らないと」というジレンマの中で、目はランランと、という機制だ。

 

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万策尽きた頃、偶然、本屋で見つけた森田療法の本の中の、「眠れなければ眠らなければいい。好むと好まざるにかかわらず、そのうち眠ってしまうものだ」という、ある意味、投げやりな真理の開陳が、私を、あっさりと救ってくれることになるのだが、真最中の本人には、まさに地獄だった。

 

日曜日が、憂鬱なのは、勤め人にとっては普遍的なものなのかもしれない。世の中には、サザエさん症候群というものがあることに気づいたのは、不眠症の頃よりはるか昔の新入社員時代だった。

 

独身寮の食堂のテレビから、あのテーマソングが流れると、いたたまれぬ思いになるサラリーマンが全国に何百万人もいるという壮絶なイメージに打ちひしがれたものだ。

 

日曜日にはテレビやラジオの放送終了時間があるということが、寝過ぎに加えて、日曜不眠症の重大な原因であると、個人的には思っている。

 

テレビというよりは、寝床で聴いていたラジオ局が続々と番組終了のコールサインを流すにつれて、どんどん、置き去りにされたような気分になったものだ。

 

眠れないから、置き去りにされたように感じたのか、置き去りにされたから、眠れないような気がしたのかは定かではない。どちらでもあるかのようで、どちらでもなく、半々のようでもあり。

 

来客の多い家に育ったせいか、静けさより、一定の雑音、人の声が流れている方が安心して眠れるように育ってしまい、静かすぎるのが苦手になった。子供の頃も、居間で大人たちの会話を遠くで聴きながら、枕元の携帯ラジオから流れる落語や漫才を聴いて眠るというのが私の安眠のスタイルになった。

 

その意味で、最近、世の中がオンデマンドになり、放送終了のコールサインに脅かされることがなくなったことは喜ばしい。

 

ところが、私と違って、このラジオの音に苦しんだ人がいる。

 

作家の永井荷風だ。

 

社会学者の吉見俊哉さんは、名著「声の資本主義:電話・ラジオ・蓄音機の社会史」を、この永井荷風の苦渋に満ちた姿から始めている。

[吉見俊哉]の「声」の資本主義 (河出文庫)

 

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板塀一枚を隔てた隣家から聞こえてくるラジオの音を嫌い、それを避けるように家を出たのは『濹東綺譚』の永井荷風であった。夏、暑さが和らぐ夕刻から燈火の机に向かおうとすると、毎日のように「亀裂(ひび)の入ったような鋭い物音」が荷風の書斎を襲う。ラジオである。とりわけ彼を苦しめたのは、九州弁の政談、浪花節、それに「学生の演劇に類似した朗読に洋楽を取り交ぜたもの」であった。さらに、「ラディオばかりでは物足らないと見えて、昼夜時間をかまわず蓄音機で流行唄を鳴し立てる家」も出てくる。この音どもの襲来から逃れようと、荷風は夕飯もそこそこに家を出て、遊女たちが窓に坐る夕刻から蓄音機やラジオの使用が禁じられていた濹東の裏街に向かうのだった。(吉見俊哉

 

今とは違って、随分、家屋も貧弱だったようで、隣の音が筒抜けな時代ではある。とはいえ、住宅事情が改善した今でも、上の階の子供が立てる騒音などをめぐって、刃傷沙汰が起こるのも決して皆無とはいえない。

 

個人個人が、ステレオを身体に括りつけて歩いているような時代になったので、乗り物の中まで、争いの場が広がっているともいえるだろう。

 

永井荷風を苛立たせたのは、ラジオによって、「場所的な音の世界」が奪われることだった。

 

ラジオの音は、あきらかにこうした音の触覚的なありようからは逸脱していた。ラジオや蓄音機から聞こえてくる音は、場所的な広がりを持った世界に触れられるものとしては存在していないのである。ヴァルター・ベンヤミンが看破していたように、複製技術は表象をそれが生起したはずの場所から乖離させ、出来事のアウラを解体し、二次平面的な展示価値の世界に配置していく。このように場所に根を持たない音、無限に複製される平明性としてしか経験されえないような音が身の回りに溢れていくなかで、荷風は苛立ちながらもなお場所的な音の世界にこだわりつづけていたのである。(吉見俊哉

 

 

吉見がこの本の中で、取りあげた「鐘の声」という美しい小品の中で、荷風は、自らの思考を妨げることもなく、まるで揺籃(ゆりかご)の歌のようだった鐘の音が、震災後、昔とは違う響きを伝えて来るようになったと述懐する。自然に身体に寄りそう音ではなく、むしろ、自分から待ちわびねばならないような音に変わったことをを訝しく思うのだ。

 

永井荷風 鐘の声

鐘は昼夜を問わず、時の来るごとに撞きさされるのは言うまでもない。しかし車の響、風の音、人の声、ラヂオ、飛行機、蓄音機、さまざまの物音に遮られて、滅多にわたくしの耳には達しない。(中略)

 

たまたま鐘の声を耳にするとき、わたくしは何の理由もなく、むかしの人々と同じような心持で、鐘の声を聴く最後の一人ではないかというような心細い気がしてならない。

永井荷風、「鐘の声」)

 

新しいメディアは、人間の精神構造に大きく影響を与え、その結果、社会編制も質的な変化を遂げることになる。80年以上も前の、荷風の時代から、メディアの進化は、二回りも、三回りもしているはずだ。何が失われ、何が得られたのかなど、手練れの鋭敏な文明解剖家にしかわからないほどの微細さと複雑さである。

 

果たして、今を生きる「ラジオ・ネイティブ」な私と、鋭敏な耳を持っていたこの老作家との距離は、どれだけ近く、どれだけ離れているのだろうか。

 

年末に、自ら心がけることでしか聴くことのなくなった鐘の音。

 

荷風と私の間の距離は、やはり果てしなく遠いのかもしれない。

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フランス有権者はピンを見つけただろうか;   フランス大統領選

 

外国人の知り合いが多いとは言えない。

 

だから、一般論という形で表明されることが多い、特定の外国人に対する個人的意見などというものは、おおむね、数少ない自分の知り合いとの限られた経験に左右されることになる。

 

少々手が込んでる場合でも、その国の人が書いた、自国についてのエッセイが関の山で、大半は、テレビ、新聞での、外国人論あたりで片づけてしまうのがほとんどだ。

 

フランス人となると、直接の知り合いなどいないし、過去にさかのぼってみても、語学学校で会った、嫌みな、ベルギー人のフランス語教師との体験ぐらいしかない。

 

「フランス大統領選、マクロン、ルペン」の画像検索結果

 

今回のフランスの大統領選は、既存政党抜きでの決選投票になるという意味では、第五共和制下で、空前絶後の事態だそうだ。

 

四人の候補が接戦を繰り広げ、結果、次の本選は、若手で、親EUで、グローバリストのマクロン氏と、親譲りの極右で反EU、ナショナリストのルペン女史の一騎打ちになった。

 

敗退した候補は、いち早く、マクロン支持を鮮明にしたらしく、決選投票でのマクロン有利が伝えられた。このニュースを受けて、世界の株式市場は急上昇した。

 

失業問題、難民問題、テロ問題の何一つ、解決の方向性が見えたわけでもないのだが、とりあえず、安堵感が漂っている。

 

フランスということでいえば、個人的に一番なじみがあるのは、哲学者のアランだ。

 

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人生のいろいろな状況でこの人の言葉に、救われた。一種の人生のマニュアルであって、仕事を始めた頃には、カーネギーの道は開けると一緒に、自分のアタッシュケースの中にいつも入っていた。

 

 

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その後、軽い鬱病に悩まされた時には、この本は、森田療法に関する本の横に置かれることになった。

 

不安心理などというものは、おおむね、身体の不調が原因だというような、乾燥した身振りで、鬱のかさぶたを、笑いながらはがしていくような爽快感が、私にはちょうど合っていたようなのだ。

 

不眠症で決定的な役割を果たした、森田療法の、眠れなければ、眠らなければいい。ずっと起きていれば、そのうち、フラフラになって嫌でも寝られるというような身もふたもない語り口にも似ている。その意味では、悩みの原因は、自分の思いそれ自体にあるという、最近のビパッサナやマインドフル瞑想などにも通底しているようだ。


 

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[山下良道]の本当の自分とつながる瞑想入門

 

 

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幸福論の冒頭に、若きアレクサンダー大王が、贈答品の名馬が暴れるわけを探し出して見事に馴致するというエピソードがある。

 

不安や不機嫌から立ち直るには、自分が気づいていない、身体に刺激を与えるピンを探すことだという教訓である。

 

 

人がいらだったり不機嫌だったりするのは、よく長時間立たされていたせいによることがある。そんな不機嫌にはつきあわないで、椅子を出してやりたまえ。ものごとはどういう態度でやるかがすべてだ、と言った外交官タレランは、自分の思いもかけなかったほど深い意味を言っている。他人に不快な思いを与えまいとして、彼はピンをさがし、ついに見つけたのである。現代の外交官たちはみんな、彼らのおむつの中に刺しそこねたピンを持っているそこからヨーロッパの紛争が出て来る。(神谷幹夫訳)

 

欧州政治におけるポピュリズムへの不安から、オランダの総選挙は、等身大以上の関心を集めた。EUの維持という観点からは、本来、オランダどころの影響ではないフランスだが、不安をさらにエスカレートさせることだけはなかった。

 

欧州諸国の国民が、自分たちを悩ます本当のピンを見つけることができたのならば、これに越したことはない。

 金融市場を馬のように暴れさせているのが、EU破綻というピンということだけはわかっているのだが、残念ながら、人々の現実の人生にとって、一番大事なのはそれじゃない。

 

フランス国民が、この哲学者のように冷静で、安定していて、自分の下着の中の、本当のピンをさっさと見つけることができることができるような国民性を世界に誇ってくれることを心から期待してやまない。

 

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渡来人の作った日本文化(沖浦和光 「陰陽師とはなにか;非差別の原像を探る」)

日本的芸術の極致のように語られるのが能だ。

 

その創始者は、風姿花伝で知られる、世阿弥

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世阿弥の実名は元清で、自ら秦氏と称した。

 

秦氏は、古代の日本文化、文明に甚大な影響を及ぼした。古代の渡来系氏族の中でも、最大の集団だったという。

 

その一族の活動は、『日本書紀』『続日本紀』をはじめ数多くの資料に記されている。秦の始皇帝の後裔を称し、応神天皇の御代に百二十県の人夫を率いてやってきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とするが、実際は新羅加羅が出身地と推定される。(沖浦和光

 

日本のナショナリズムという業病が、戦後近代社会に対する漠然とした信頼を揺るがしている。純粋な日本人という抽象概念を弄び、一つの時代を台無しにした、古びた空語を弄ぶ輩の跋扈に驚かされた。驚いた後に、迂闊に見過ごしていた自分の不明を恥じるばかりだ。

 

この気持ちの悪い時代の空気に対して、自分にできるのは何なのだろうか。

 

まず、大事なのは、事実である。観念に拘泥するのはなく、事実を直視することだ。

 

日本という国の歴史は、常に、東南アジア、中国、ロシアなどとの絶え間ない交通の只中にあった。教科書の中で鎖国という言葉が抹消されるというような話も聞いたが、絶え間ない交通ということと、雑種性というものを直視するためならば悪くないのかもしれない。

 

朝鮮半島には、日本人のレイシズムの起源がある。とりわけ、中国、北朝鮮、韓国をめぐる不安定性の高まりは、この場所が、常に日本史における火薬庫であったことを否が応にも思い出させられる。

 

沖浦和光さんの「陰陽師とは何か」の中にこんな一節がある。

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北東アジアの政治的情勢の大きい転機となったのは、660年の百済滅亡、そして668年の高句麗滅亡だった。その際、多くの難民・流民がこの列島にやってきた。王侯・貴族は「蕃客」として受け入れられたが、下層の民衆に対しては厳しい入国管理制度で対応し、戸籍では王化に服する「帰化人」とされた。そのような時代の流れとともに、これら七世紀後半に新しくやってきた「韓人」に対する賤視観が強まったのである。

 ヤマト王朝も、遣唐使によって先進文化を摂取する方向に外交政策を切り替えた。したがって、旧三韓国に依存していた文物の導入ルートも、さほど重要ではなくなった。

 

 

八世紀後半に、既に、朝鮮半島三韓からの渡来人に対する差別意識が広まっていたという事実に、悄然とする。そして、常に、時代時代のレアルポリティークが時代時代の政治意識を規定するのだという事実に、1000年以上も前の過去が、今この現代に直結するのを感じる。

 

大国とのはざまで隣接する小国同士の感情のもつれ、捩じれというものは、ちょっとやそっとでは、解けないのだ。もつれた糸を解こうとすれば、解こうとするほど、それが決して切り離すことのできないものであることが露呈する。

 

日本のレイシズムは、薄々、その事実に感づいていながら、感情的に決して認めたくないという錯綜した情念の現れであるという意味で、深刻なのだ。


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