21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

朝日に匂うやまざくら花 (水上勉 「櫻守」、勝木俊雄「桜」)

今年の東京の初春は、桜にとっては、多少、気の毒だったかもしれない。

 

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桜からすれば、いつものように、三寒四温の、気まぐれな、春など、慣れっこかもしれない。気の毒だったのは、花の下で一献傾けたい花見客だけとも言えないことはない。

 

しかしどうして、僕たちは、こんなに桜が、好きなんだろう。毎年毎年、桜の訪れを待ちわびて、その束の間の色彩の饗宴をその短さの故に繰り返し、繰り返し、愛惜する。

 

東京の住人にとっては、桜といえば、染井吉野である。一斉に咲いて薄桃色のベールで街中を覆いつくし、また一斉に散るというそのケレンを愛してやまない人々がこの街には多い。

 

しかし染井吉野だけが桜ではない。

 

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岩波新書の勝木俊雄の「桜」によれば、日本に分布しているサクラ類の種は、ヤマザクラオオシマザクラ、カスミザクラ、オオヤマザクラ、マメザクラ、タカネザクラ、チョウジザクラ、エドヒガン、ミヤマザクラカンヒザクラがあるという。

 

じゃあ染井吉野はということになるが、そもそも、江戸時代までは、京都や江戸では、桜といえばヤマザクラだったという。

 

本居宣長も「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」と歌ったぐらいである。

 

先の「桜」によれば、染井吉野は、江戸時代末に江戸の染井村(巣鴨のあたり)の植木屋が「吉野桜」というブランド名で売り出した栽培植物であり、本格的に、全国に拡大したのは、御一新後の新政府によるものだったという。

 

今も、染井吉野が一斉に散ったあとも、ポツンポツンと、ヤマザクラの花を街で見かけるが、樹々すべてが一つの生命体のようにみえる染井吉野の薄桃色のベールに比べると、良くも悪くも、その花にも葉にも、なんとも言えぬ野趣が漂っている。染井吉野のケレンに慣れ親しんだ眼には、どこか野暮ったく見えるのも事実だ。

 

新政府の肝いりもあって、成育速度が速く、病気にも強い、染井吉野が国中の公共施設の近くに広められ、現在の日本人の花見風景を形作っていった。

 

染井吉野’が広まった時代は地方分権であった幕藩体制が終わり、東京を首都とする中央集権の国家体制が確立していく時期にあたる。‘染井吉野’は植栽に広い空間が必要であることから、学校や神社、公道など公の場所に植栽されることが多い。そうした公の場所に相応しい樹木として、首都である東京生まれの樹木が選択されることは容易に想像される。(勝木俊雄)

 

その反動で、東京への対抗意識の強い京都や大阪では、染井吉野が少ないとか。

 

染井吉野の大きな特徴のひとつは、接木によって増殖され、すべての個体が同じ遺伝子を持つクローンということである。接木とは、増殖した親木から穂木と呼ばれる枝を採り、台木となる木につなぎ合わせて成長させる手法である。したがって、接木によって増殖された新しい個体は、接いだ部分から下側の根の部分は親木と異なるが、接いだ部分から上部は親木とは変わらない形質をもつ。また、発根性が強い種類では、接いだ上部から発根して、やがて根の部分もすっかり置き換わる場合もある。こうなると親木と遺伝的にまったく同じ個体ができあがることになる。

 

数多く植えられた‘染井吉野’が同じ形態をもつ花をつけ、同じタイミングで一斉に咲いて一斉に散るという特徴は、クローンだからこそのものである。江戸時代まで花見の対象であったヤマザクラはふつう種子から増殖される。そのため、人間と同じように一本ごとに顔かたちがちょっとずつ異なる。遺伝的多様性をもつ野生集団のサクラは、花の大きさや色合い、若芽の色、咲く時期などが個体ごとに異なる。したがって、種子で増殖したサクラを数多く植えた場合、‘染井吉野“のように一斉に咲くことはない。ただ、これは種子で増殖したからである。ヤマザクラオオシマザクラであっても、接木や挿木で増殖したものをまとめて植えると’染井吉野‘のように一斉に咲いて一斉に散ることになる。(勝木俊雄)

 

この染井吉野のケレンや、「政治性」を嫌い、全財産を使って、兵庫県の武田尾の地で、多くの桜を守り育てた笹部新太郎という人がいる。

 

この人をモデルに、水上勉が「櫻守」という美しい小説を書いた。戦中、戦後の、笹部氏がモデルの竹部庸太郎の桜への愛情を、一心に支えた職人弥吉の人生が描かれている。この小説の中にこんな一節がある。

 

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小野甚にいた時、京でよくみた白い花だけの染井吉野が弥吉には美しく見えて、また、その種の桜が、植かえもよくきいたので、苗圃から庭へこの種を重宝して運んだ。竹部にきいてみると、これは日本の桜でも、いちばん堕落した品種で、こんな花は、昔の人はみなかったという。本当の日本の桜というものは、花だけのものではなくて、朱のさした淡みどりの葉とともに咲く山桜、里桜が最高だった。染井吉野は、江戸時代の末期から、東京を中心にして、埼玉県の安行などもふくめて、関東一円に普及し、全国にはびこるにいたった。育ちも早くて、植付けもかんたんにゆく。竹部にいわせると足袋会社の足袋みたいなもので、苗木の寸法、数量をいえば、立ちどころに手に入る品だ。値段も安くて、病虫害にもつよい。山桜や里桜では薬害の可能性もある駆除薬剤のどんな刺戟のつよいものにも染井は耐える。桜の管理にあたる者のなにより喜んで迎えるのも当然であったろう。

 

堕落した品種と、いたって厳しい竹部の言葉だが、確かに、時間に追われて、走り回る、自分も含めた今時の花見客の行動様式に阿っていると言えないことはない。あまりに計算されたスペクタルにはまっているともいえる。

 

 

「まあ、植樹運動などで、役人さんが員数だけ植えて、責任をまぬがれるにはもってこいの品種といえます」

 

と竹部は染井をけなした。

 

「だいいち、あれは、花ばっかりで気品に欠けますかわ。ま、山桜が正絹やとすると、染井はスフというとこですな。土手に植えて、早うに咲かせて花見酒いうだけのものでしたら、都合のええ木イどす。全国の九割を占めるあの染井をみて、これが日本の桜やと思われるとわたしは心外ですねや」

 

竹部は、このエドヒガンとオオシマザクラの交配によって普及した植樹用の染井の氾濫を、古来の山桜や里桜の退化に結びつけて心配しているのであった。(水上勉

 

ほっておくと、つるだらけのジャングルになってしまう日本の山を、寡黙な木挽きたちが守ってきた。自然の花の美しさというようなものはない。人間が愛せるのは、人間が手塩にかけたものだけなのである。植樹することで自分の仕事が終わる役人たちの通り過ぎたあと、日本の桜の美しさを黙々と守り続けた人がいた。

 

桜を楽しむということは、そういう過去の上に立っているのだという思いで、名残のヤマザクラを眺めてみる。

 

17℃ 曇り 109.375¥/$

ユーミンが荒井由実だった時代(柳澤健 1974年のサマークリスマス)

2017年4月20日(木) 21℃ 晴れのちくもり ¥/$108.874

 

心に長く残る歌というものがある。

 

人生の時々に、何度も、聞き返しても、はじめて聴いた日の感情が、まるで、アルプスの氷河の中に凍結されたように、その日のままに保存されている歌。

 

そんな歌は、当然ながら、多くはない。

 

メロディ、歌詞、そして、それを歌う人の声の幸福な組み合わせがあって、はじめて、最初の想いの永遠性が保たれる。

 

僕にとってそんな曲は何だろう。

 

加藤登紀子「愛のくらし」

中島みゆき「この空を飛べたら」

薬師丸ひろ子「Woman」

 

そして荒井由実の「旅立つ秋」。

 MISSLIM

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デビュー時の荒井由実と、サブカルの拠点のようなTBSラジオパックインミュージックのDJの林美雄、そして無名の天才沼辺信一というリスナーの間の、奇跡のような幸福な三角形と、その緩やかな死を描いた傑作ノンフィクションがある。

 

柳澤健 「1974年のメリークリスマス」。

 [柳澤健]の1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代 (集英社学芸単行本)

 

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深夜、早朝の時間帯だけ、奇跡のように電波が届く地方都市で、勉強机の横の携帯ラジオで聴く林美雄のパックの第2部から、まだ見ぬ東京で繰り広げられる若い映画作家たちの日本のヌーヴェルバーグの息吹をかすかに感じていた。

 

スポンサー枠のつかない時間帯で、独断と偏見での放送を行う異形のDJ林美雄は、荒井由実という若い才能にほれ込んだ。

 

一流大学で、学者としての将来も期待されていながら、あえて、世に出ることを拒否した、知られざる天才沼辺信一のこんな言葉は、まさしく、僕が吸っていた同時代の空気だった。

 

『林さんは「ひこうき雲」が世に出てすぐ、一九七三年秋からユーミンの紹介を始めるのだが、誰もが寝静まった深夜から早朝にかけてラジオから流れてきた「ひこうき雲」や「ベルベット・イースター」には格別の味わいがあった。こんなにも繊細で内省的な音楽を紡ぎ出す少女がこのニッポン国に出現したのだという予期せぬ驚きと嬉しさに心が震えた。番組の最後に「雨の街を」がかかり、そのあとトランジスタ・ラジオを切って外気を吸いに表へ出ると、白々と開けてきた街路はひっそりと静まりかえっていて、まるで歌の世界のまんまだとひとりごちたのを今でも覚えている。』(沼辺信一のブログ「私たちは20世紀に生まれた」)

 

政治の季節が終わりを告げつつあった時代だ。急激に失われる世の熱量に対するあきらめと苛立ち。かけつけた時には、既に祭りが終わっていることを繰り返し経験する、世代を、僕たちは一様に生きる運命を共有することになる。そんな心情を、林パックは深くつかんだ。

 

その後、荒井由実は、誕生の頃の奇跡に留まることではなく、ユーミンという商業音楽の製作者として生きる決断をして、メジャーなミュージシャンとしての道を駆け上がった。

 

初期の荒井由実を支えたディープなファンたちは、それに深く絶望し、一人一人去っていった。60年代のアメリカンポップスのコピーを、かつて特別な人だったユーミンが作るという醜悪さがこういった人々には耐えられなかったのだ。

 

受験勉強終わりの早朝に、ラジオから流れるユーミンの「やさしさに包まれたなら」を初めて聞いた時に、身体に流れた電流のようなものをいまだに覚えている。

 

この世のものではない、特別な、アウラとしかいいようのないものが、空から降ってきた。

 

Cobalt Hour以後のユーミンは、おしゃれだけれど、初期のファンたちが愛した「心ある歌」

ではなかった。

 

思いあぐねた、沼辺は、荒井由実に、あなたしか書けない曲が訊きたいと伝えた。

松任谷由実は、そのことをインタビューの中でこう振り返った。

 

「やさしさにつつまれたなら(MISSLIM収録)と言う曲は、自分でいうのも変なんですけ、すごく特殊な歌で、もうかけないな、っていうものなんです。インスピレーションというか、今、振り返ると、何であんなことを書けたんだろう、と思うような内容。(中略)荒井由実のころって、私はほんとうにインスピレーションで、というかインスピレーションというものがあるということも意識せずに書いていた時期があるんです。そうしたら、いつしかそれができなくなった。これはもう、自分で書いて書いて見つけるしかないなって気持ちで….。(松任谷由実月刊カドカワ」1990年1月号)

ユーミンがプロの音楽制作者として道を歩み始めたのと同じく、スポンサー枠のつかない解放空間という奇跡も終わりを告げることになる。同時間帯で他局の、深夜トラックの運転手対象の番組に自動車メーカーのスポンサーがついた。ライバルの自動車企業がこの時間枠に関心を持ち、サブカルの解放空間は一瞬にして消滅した。

 

その後、紆余曲折を経るものの、普通のアナウンサー、管理職に戻った林美雄のその後の人生も、また、祭りの後を生きたと言える。そして、彼の切り開いた、新しい才能への関心は、よりメジャーな仕組みの中に回収されていく。

 

その後、林は、若くして、病魔に倒れ、卒然と、天に戻る。

 

2002年、享年58歳。

 

どこを切っても、鮮烈な血が迸るようなこの本のクライマックスは、林のお別れの会だ。

2002年8月25日。新高輪プリンスホテルで、多くの友人たちが開催した「サマークリスマス」だ。

 

林が愛した歌手たちが、それぞれに歌った。

 

石川セリ八月の濡れた砂

山崎ハコ「サヨナラの鐘」

原田芳雄「リンゴ追分」

 

『最後に登場したのはユーミンだった。

 

多忙なスーパースターが姿を見せたことへの驚きで会場は大きくどよめいた。

 

短い挨拶のあと、ユーミンは「旅立つ秋」を歌った。

 

林パック(金曜二部)最終回の1974年8月30日、番組を終える林美雄に、はなむけとして贈った曲だ。

 

愛はいつも束の間、このまま眠ったら 二人これからずっとはぐれてしまいそう

明日あなたのうでの中で笑う私がいるでしょうか

 

秋は木立をぬけて 今夜 遠く旅立つ

 

夜明け前に見る夢、本当になるという、どんな悲しい夢でも、信じはしないけれど

 

明日霜がおりていたなら、それは凍った月の涙

 

秋は木立をぬけて 今夜、遠く旅立つ、今夜 遠く旅立つ。

 

会場の片隅で寄り添うように佇む荻大の仲間たちは涙していた。

「旅立つ秋」が、まるで今日ここで林美雄に永遠の別れを告げるために、ユーミンがあらかじめ作っておいた曲のように思えたからだ。』

 

自分の人生に寄りそうように支え続けてくれる歌というものが、誰にもある。

それはアルプスの氷河の中に何万年も凍結されたかのように、初めて聞いた時の、痛み、喜び、疼きをいつまでも保存してくれている。

 

見知らぬ誰かにそんな宝物を与えようと、日々、身を削る歌人たちは、まぎれもなく、聖なる職業と呼ばれるべきなのだろう。

エリザベス・ウォーレン 戦い続ける理由 (Paul Krugman Elizabeth Warren Lays Out the Reasons Democrats Should Keep Fighting)

2017年4月19日(水)26℃ 晴れ時々くもり 108.431¥/$

 

安倍一強政治の問題点が取りざたされる。しかし感情的に反発するだけでは何も変わらない。民進党の迷走や、国際関係における「危機」が一強状態を強化している。

 

現政権のすべてを全否定する必要はない。またそれは現実的でもない。しかし、一強状況に伴う緩みが、国民生活に及ぼし得る問題点も明らかになりつつある。一強体制は、野党の脆弱化と、自民党内部派閥の弱体化という二つの面で、再帰的に強化されつづけている。

 

政党制というものは常に不完全なものであり、常に、有権者に不満を齎すものである。しかし、グローバルに世界を覆う、立憲主義独裁のような動きが齎す災厄の可能性を歴史が教える中で、適切な対抗勢力がなんとしても必要なのだ。

 

対抗勢力にとってもっとも必要なのは、左右という軸が流動化する中で、国民に心にストンと落ちる言葉を組み立てることであり、対抗勢力として「戦う理由」を世に問い続けることである。

 

クルーグマンが、米国民主党左派の闘将エリザベス・ウォーレンの新著についての書評を書いている。

 

This Fight is Our Fight(この闘争は、我々の闘争なのだ)

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米国と日本の状況を単純に比較することはできない。格差というものへの考え方についての両国の歴史の違いがあるからだ。

 

トランプ旋風という中で、政党制の不備をついて、政治運動が米国政治を支配するという未曽有の状況が生じているアメリカは、我々が日本という環境とその選択肢を考える上で、一つの手がかりを与えてくれることは間違いない。

 

表面的には、共和党が勝利したかにみえるが、本質的には政党制の敗北が生じている。その中で、おそらく、表面的な勝利によって、しばらくは、従前のごまかしを続けることができる共和党よりは、その敗北を明確に認めるしかない民主党の方に、政党としての回復の可能性があるようにも思える。

 

抵抗運動には、マニフェストが不可欠だ。民主党のイニシアティブを取り戻すための完璧な青写真を提示しているとはいいがたいが、今、民主党が最も必要としている「戦い続ける理由」をいち早く提示したエリザベス・ウォーレンのこの書物の貢献度は大きいとクルーグマンは主張している。

 

日本政治においても、象牙の塔の外に出て、あるべき政治軸を語る声が必要とされているのを感じる。政治の根本にあるのは言葉である、常に実証精神を失わない、「言い訳のない」精神で、普通の国民の生活の実感に刺さってくる、政治の言葉、マニュフェストの確立が野党と呼ばれる陣営の急務なのだろう。

 

 

Elizabeth Warren Lays Out the Reasons Democrats Should Keep Fighting

By Paul Krugman

https://www.nytimes.com/2017/04/18/books/review/this-fight-is-our-fight-elizabeth-warren.html?rref=collection/sectioncollection/books&action=click&contentCollection=books&region=rank&module=package&version=highlights&contentPlacement=1&pgtype=sectionfront&_r=0

 

(以下抄訳)

学者よ、象牙の塔に閉じこもるなという声が強い。

 

だからこそ、象牙の塔から飛び出して、実社会で活動する数少ない学者たちは賞賛される。

 

不思議と、エリザベス・ウォーレンはこのカテゴリーに分類されることはない。

 

ウォーレンはハーバード大学の法学部の教授であり、政治活動家としても実績を上げ、2010年のドッド・フランク金融改革の主要部分となった個人投資家保護領域について、八面六臂の活躍をし、多くの金融不正が生じるのを防いだ。

 

その後、彼女は影響力のある上院議員になり、ヒラリーの大統領選では民主陣営の中の本当の民主党民主党の良心を代表する部分の事実上のリーダーとして注目を浴びた。

 

ところがトランプによる大番狂わせが起こった。

 

その中で、民主党の中心議員たちは、トランプ政権に対抗するための有効なリーダーはどうあるべきかを考えなければならない。

 

ウォーレンの新著は、まさに、民主党のリーダーとはどうあるべきかについての、一つのビジョンを提示するマニフェストなのである。

 

では内容に説得力があるか。

 

答えは単純ではない。

 

ウォーレンの立場を、啓蒙的ポピュリズム(The Enlightened Populism)と呼ぶことにしよう。

 

彼女は所得と富が一握りのエリート層に集中しつづける状況を厳しく非難する。

 

経済的報酬が一部に集中することによって、我々の政治的システムが破壊されたとし、彼女は、不平等な富と権力を、普通の世帯が直面する、所得の低迷、格差の増大、機会の破壊などの諸悪の根源であるとする。

 

彼女は中間層の苦境を具体的に描きだす。ウォルマートの労働者が食料配給の列に並び、DHLの労働者が大幅な賃金カットにさられ、ミレニアル世代(30代後半以降の世代)が奨学金ローンに押しつぶされている。

 

彼女の生い立ちも、マニフェストの中で、うまく活用されている。

 

自分が育った、今よりはるかに寛大で、格差が小さかった時代における個人に与えられていた機会と、現代の人々が直面している困難を比較する。

 

自分が成功できたのは、今や見る影もない、質の高い、安いコスト(一学期の授業料が50ドル)で得られる公立大学による教育であり、相対的に高い最低賃金のおかげだと。

 

では、普通のアメリカ人苦境に変化をもたらすには何ができるのか。

 

ウォーレンは、金融規制の維持、強力な社会プログラム、教育、研究、インフラに対する新しい投資などが必要であると主張する。これは民主党の標準的な立場に見えるかもしれない。しかし、答えはイエスでもありノーでもある。

 

ウォーレンの主張は、ニューディール政策の再来のように聴こえる。これは彼女自身も認めている。

 

「一度できたのだから、またできないわけがない。」

 

しかしウォーレンの独自性は、多くの民主党議員が今まで、避けてきた要素を発言に付け加えたことだ。オバマ政権も、みなが考えているよりははるかに多くの格差是正対策を行ってきているのだがさすがに、明示的に格差減少策を提示することには躊躇した。

 

ウォーレンは、これに対して、格差の原因と、それをどのように削減するかという論争において断固、左派に立つ意思表示をしている。

 

民主党よりの経済学者でさえ、格差の高まりを、避けがたい市場の力の結果として捉える傾向が強い。特にテクノロジーが、物理的な労働に従事する人々の賃金の下落を引き起こし、このトレンドに対する戦い、たとえば最低賃金の設定は、むしろ雇用の喪失につながり、助けようとしているまさにその人々の失業率を高めることになるのだと言うのが彼らのロジックである。

 

リベラル派でさえ、この点に関しては、自由市場政策を支持することがほとんどだ。

 

彼らは、賃金格差の高まりは、教育とトレーニングへの支出によって制限することができるとする。

 

そして所得の過度な集中を制限し、労働者を支援する主な手段としては累進課税と強力なセーフティネットかがふさわしいと考えるのである。

 

これに対して、ウォーレンが主張する、代替的見解は、富裕層に課税し、セーフティネットを強化することである。彼女は、さらに公共政策によって労働者の交渉力を増強すべきだとする。しかし、これまでの現実の公共政策はこれとは正反対だったので、格差は多くの領域で急拡大した。

 

この代替的見解は、過去数十年間で目立って主張されるようになってきている。これらの発言は、多くの実証データによって裏打ちされている。私が、ウォーレンのポピュリズムを啓蒙的と呼ぶのはこういう実証性を大切にするところだ。

 

この本の冒頭で、ウォーレンは、最低賃金が上昇しても雇用に大幅な悪影響は及ぼさないことを示す学術研究が積みあがっているのに、最低賃金を上昇させることを拒否する政治家たちに苛立ちを隠さない。

 

彼女は正しい。

 

その後、彼女は、組合の弱体化のもたらす悪影響について書き進める。これもまた多くの研究調査によって裏付けられているものである。IMFのような左派(笑)情報源もこれを認めている。

 

ウォーレンのユニークさは、格差と戦うための方法としての税金、社会的支出に加えて、市場への介入を重視することである。

 

これによって彼女は、民主党の中でもかなり左寄りのポジションを占めることになる。

 

な実際の政策が理想とは違った方向へ向かう理由は何か。ウォーレンは、この点においても、他の民主党議員に比べて、スタンスが明らかである。それは、上院での発言、この本での主張に共通している。彼女は、名指しで、ビッグマネーが引き起こすアメリカのシステムの腐敗を問題の根源として非難する。

 

これはこの本の中で繰り返される主題だ。

 

2015年に、労働省が立案した、投資アドバイザーが顧客の利害に基づいて行動することを求める受託者ルール法案に対する議会ヒアリングがあった。

 

ブルッキング研究所と連携した有名金融エコノミストのRobert Litanが、このルールに反対する証言をした。

 

この時も、ウォーレンは、ほとんどの政治家がしなかったことを行った。

 

彼女は、Litanの反対意見が大手のミューチャルファンド会社からの報酬をもらって行った調査に基づいたものだと非難したのである。(Litanはのちにルールを破ったということでブルッキングスとの関係を断つことになった。)

 

この本は、ウォーレンの賢明で、タフな精神を表しているのは確かだ。

 

しかしこれが革新的政治の復活(progressive political revival)の有効な青写真と言えるだろうか。

 

ウェストバージニア州のことを考えてみよう。オバマケアによって保険に加入していない人の数は6割も減った。最低賃金は上昇し、組合が復活した結果、ヘルスケアとソーシャルサービスというこの州の二つの最大の産業の労働者に奇跡が起こった。すなわち、啓蒙的ポピュリズムアジェンダが普通のアメリカ人に対して望ましい効果をもたらした完璧な例である。

 

 

しかし昨年11月にウェストバージニア州は、とうの昔に、影も形もなくなっていた炭鉱での仕事を復活させるというナンセンスな公約をする非啓蒙主義的ポピュリストに対して、3人に1人が投票したのである。公約だった、炭鉱の雇用回復はいまだ達成されていないし、この州の住民の4分の1以上をカバーしていたMedicaidも破壊された。

 

なぜこんなことが起こったのか。

 

多くの人々がアイデンティティ政治を原因にあげている。

 

白人および男性中心のアイデンティティ政治だ。

 

ウォーレンが繰り返し、偏見というものの政治的重要性を重視していたことは評価すべきである。

 

彼女は、バーニー・サンダースのような人までもが認めていた、人種、性差への偏見(bigotry)は経済プログラムが十分に革新的(progressive)ならば、政治的に重要なものにはならないという考えには与しなかった。

 

この点に関して、この本の中で、彼女が良い答えを出しているというわけではない。

 

しかし正直に言おう。

 

共和党のウォーレンに対する攻撃は、サンダースに対するものとは明らかに異なっており、その原因の一部は性差にあったと言わざるを得ない。

 

しかしこれも時間の問題だ。

 

民主党議員が、今、本当に必要としているのは、「戦いつづける理由」なのである。

 

これこそが、まさにウォーレンの力強い、言い訳のない、この新著がまさに提供しているものなのだ。よしんば、これが最後の決定的な言葉でなかったとしても、これは貴重な貢献と言える。

 

(以上)