21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

若冲さまには及びもないがせめてなりたや街の画家(保坂和志、書きあぐねている人のための小説入門)

2017年3月21日(火)13℃ 雨

 

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三寒四温というのは日本の気候を表すのに適した表現なのかどうかは知らないが、まさに、季節は行きつ戻りつしている。昨日の春分の日、日向を歩いていると汗をかくような温かさだが、休み明けの今日は一転、冬のような雨が降っている。体調管理がままならぬのも当然だ。

 

最近、以前読んだ本で、自分が横線を引いている部分を読み直すようになっている。新刊本を買うスピードが減ったというわけでもないが、読書というものは繰り返し読むことにかなりの意味があると実感しはじめているからだ。

 

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最新作はキンドルで読んだ、保坂和志が10年以上前に書いた「書きあぐねている人のための小説入門」(草思社)を眺めている。彼が、小説を書くというプロセスを精密に説明している。かといって、いわゆるマニュアル本やテクニック集にならないのは、彼の根本にある小説観によるものだ。テーマ、定型的な物語を排するという姿勢は、僕が、ずっと激しくひかれ続けている蓮實重彦のゆらゆらとした前言撤回の文体に似ている。

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ほぼ日刊イトイ新聞 - 書きあぐねている人のための小説入門。



10年以上前の僕はこんなところに線を引いている。

  

『小説というのは本質的に「読む時間」、現在進行形の「読む時間」の中にしかないというのが私の小説観であって、テーマというのは読み終わったあとに便宜的に整理する作品の一側面にすぎない。

  

「小説の豊かさ」というのは、テーマのような簡潔で理知的な言葉で語れば足りるものではなく、繁茂する緑の葉に木の幹や枝が隠されていくように、簡潔な言葉で説明できる要素が、次から次へと連なる細部によって奥へ奥へと退いていくところにある。

  

小説には、かならずどこかで現実とのつながり、現実の痕跡、現実のにおい、みたいなものがなければならない。』

  

  語り口は平易なように見えて、保坂和志の小説は決して読みやすいとはいえない。彼が現実を、たゆむことなく、その書き言葉の中に押し込めるその力業のせいだろう。読みなれた定型的物語へと還元して片づけてしまうことを読者に許さない緊張感が常に彼の文体には漂っている。

 

こんな言葉が、その独特な禁欲を一文で物語っている。

 

『小説家は、すでにある形容詞でものを見てはいけないのだ。』

 

マチュアながら文章を書くということにこだわっている僕にとっては、この本の中の風景を描くという章が一番面白かった。当然、この章は傍線だらけになっている。

  

『子供はみんな絵を描くけれど、それは子どもがこの世の中に絵というものがあることを知っているからだ。たとえば、花の絵を描く子供は、花そのものを描いているのではなく、花の絵を見て花の絵を描いているだけだ。自分の前に絵がなくても、絵を立ち上げることができるのは本当の画家しかいない。

  

小説の書き手もまた、画家が三次元を平面に押し込んだように、三次元の風景を文字に変換しているということで、そこには強引なまでの力が加わっているはずだ。

  

風景を書くのが難しい理由の本質はここにある。三次元である風景を文字に変換する(押し込める)ということは、別な言い方をすると、視覚という同時に広がる(つまり並列的な)ものを、一本の流れで読まれる文字という直列の形態に変換するということである。

  

知覚全般は一挙的(並列的)なため、それを線的(直列的)な言語に置き換えるのは脳にとって負担が大きく、それゆえ感動も大きくなる。 

  

 

作家にとって一番難しいのが風景描写だが、まさにその風景描写の部分にだけ、作者の身体性が介在することができる、と保坂は言う。だからこそ、そこに小説家の文体が生まれるのだと。

 

東京という街をぶらぶらすることが多い。自分が観た東京という風景をなんとか、僕なりの文体によって言葉に置き換えたいという想いが日ごと強くなっているからである。

 

若冲のように何年も、庭の鶏の動きを見つめ続けるまでの烈しさは無理としても、川べりに座り、画架立てて、スケッチする人のような、その時間の中に立つ覚悟がいるのかもしれない。

 

幸福とは死に臨んで悔いがない状態(内田樹 おじさん的思考)

2017年3月20日(月)春分の日 16℃ 晴れのち曇り

 

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今日も暖かい一日になりそうだ。三連休の最後の日。今日はどんな風に過ごそうか。長年の日課となった、多くの新聞に目を通すという作業も、今日は、あんまり気合いを入れず、さっとやり過ごした。

 

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何かを続けるということはとても大切なことだし、それによって長い間に人知れず、何かが蓄積されているというのも事実だとは思うけれど、何かを続けるためには、実は、緩急が不可欠ということも忘れてはならない。

 

人生のマニュアル書の類には、どうも、継続は力なれと言うと、眦を決して、一日足りとも手抜きをせずに、というようなことが前提となっているようだが、それは、現実的ではない。

 

保証してもいいが、いわゆる達人も、多分あの王貞治さんだって、この緩急、特に緩の日々があったはずだ。というより、それでなくては、物事は続けられないのだ。

継続をすると、必ず、身体の奥底の方に重い疲労感が沈殿していくのがわかる。

 

これが一定の厚みになると体調がほぼ確実に悪化する。要するに、一定の強度で継続なんかできるはずがないのである。

 

逆に、これも保証していいと思うのだが、何の分野であっても、達人のレベルに達している人は、緩急の緩であったとしても、とにかく続けていることだけは間違いがない。

 

続けるということは、量的なものではなく、心の質の問題だからだ。

 

何の分野でも達人の域にも達していない自分がこんな長い前置きで言いたかったのは、今日は、何かのためではなく、ただダラダラと過ごすぞということなのである。

 

そんな気分で、過去のノートを見直していたら、一時期は、生きるマニュアルあるいは、気の利いた法話のように愛読してやまなかった内田樹さんのデビュー時のエッセイのこんな文章を書きぬきしていた。

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『人は幸福に生きるべきだ、と人は言う。私もそう思う。でも、たぶん「幸福」の定義が少し違う。そのつどつねに「死に臨んで悔いがない」状態、それを私は「幸福」と呼びたいと思う。幸福な人とは、快楽とは「いつか終わる」ものだということを知っていて、だからこそ、「終わり」までのすべての瞬間をていねいに生きる人のことである。そう私は思う。だから「終わりですよ」と言われたら、「あ、そうですか。はいはい」というふうに気楽なリアクションができるのが「幸福な人」である。「終わり」を告げられてもじたばたと「やだやだ、もっと生きて、もっと快楽を窮め尽くしたい」と騒ぎ立てる人は、そのあと長く行き続けても、結局あまり幸福になることのできない人だと思う。

  

幸福な人は、自分が幸福なだけでなく、他人を幸福にする。だから、私はみんなに幸福になって欲しいと思う(なんだか武者小路実篤の文章みたいになってしまった)。(「お先にどうぞ」という倫理的生き方)』

 

ようし、今日は、今死んでもいいと思う気分で一日ダラダラと過ごしてやる!

チャック・ベリーあるいは剽窃されたアメリカの魂

2017年3月19日(日)17℃ 晴

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昨日、飛田給味の素スタジアム多摩川クラシコへ、FC東京の高萩洋二郎を応援に行った。前半、後半のなかばまで川崎フロンターレが押し気味のつまらない試合ぶりだったけど、後半、なぜか、オウンゴール、新加入のウタカ、大久保嘉人と立て続けに3点連取で、結果、圧勝だった。

コンサドーレの初勝利と大久保の初ゴールの祝杯の疲れの中目覚めると、チャック・ベリーの訃報。

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むしろ、存命なことに驚いた。

文字通り、音楽の革命児だった。

傑作映画キャデラックレコードについて8年前に感想文を書いた。

この映画は、欧米のポピュラー音楽が、黒人の魂を節操なく剽窃する形で生み出されていることを「美しく」描き出していた。

チャック・ベリーは、剽窃された魂そのものなのだ。そして剽窃という起源はゆるやかに隠蔽され、アメリカ音楽の魂そのものに昇華した。

 欧米だけじゃなく、日本でも捩じれたレイシズムと、幻想の純潔主義という過去の亡霊に息を吹き込もうとするものがあたりに異臭をまき散らすようになってきた。無数の悲劇を超えて尚、単一民族とか民族の純粋性などという醜悪で危険な幻想がいまだに止揚されえないことに、人間の歴史の辛さがある。

2009年8月17日

新宿でキャデラック・レコードを観た。

  一言で言えば、演奏される荒削りな魅力に満ちたシカゴブルースやR&Bを聴くだけでも、おつりがくるような映画だ。監督は、Darnell Martin. 

 

1950年代シカゴ・ブルースの黄金期にMuddy Waters, Little Walter, Howlin’ Wolf, Chuck Berry, Etta Jamesなどの黒人の才能を束ねたのが、ポーランド移民の子であるユダヤ人のLeonard Chessだった。

 

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Chessが屈指のジャズギタリストMuddy Watersと出会うところから映画は始まる。Muddyの兄弟分の天才的ブルースハープ奏者Little Walterが新興チェスレーベルを成功させていく。Chessは印税代わりのように、ミュージシャンにキャデラックを与える。当時の黒人たちにとってはきわめてわかりやすい成功の証だった。

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実話に基づくといわれても、かなりアメリカ大衆音楽史の教養がなければ、チャック・ベリー以外は知らないというのがあたりまえのような時代である。ただ、この映画が繰り返し伝えるメッセージだけは明らかだった。

 

アメリカのポピュラー音楽を作ったのは黒人の魂であり、それが漂白される過程で、全世界の一般大衆を巻き込んでいったという歴史的事実である。ある時期までは、この事実は確信犯的に隠蔽され、その後は、時間の経過の中で、どうでもよくなったという形で忘却されるままになっていったのだろう。

 Muddy Watersに憧れるイギリスの青年たちのバンド、ローリングストーンズとの交流など、楽しいエピソードなども挿入される。(映画の最後に、演奏者たちのその後がテロップで流れるところで、Howling Wolfの墓地代をクラプトンが支払ったというあたりなど最高だった。)

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この映画自体、かなりハリウッド的に漂白された意識の中で撮られているが、それでも、やはりこの映画の根幹は、白人プロデューサーのLeonard Chess (Adrien Brody差別意識のない解放者であり、搾取者でもあるという矛盾した存在を、淡々と描いていて素晴らしかった)Muddy Waters(Jeffrey Wright)との利用しあいながら、信頼しあいながら、あくまでも黒人と白人であるという痛切な関係性を見事に描いていた。

 

薬漬けで最後には暴力沙汰で命を失うLittle Waltersの葬儀に現れるHowlin’ Wolf (演じているEammonn Walkerのブルースは凄い迫力だった)が、ChessとWatersに言うセリフが痛切だ。Wolfは常に、Chessに依存しつづけるMuddyに批判的だった。

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「His job is to make money off you. You’re fromMississippi. I thought you would have known that.

(チェスの稼業は、おまえをだしに金儲けをすることだ。マディ、おまえはミシシッピ出身だからそんなことはとうにご存知かと思ってたよ。)

 

「(アメリカのロックと)ブリティッシュロックシーンとのもっとも大きな違いは、肌の色の違う人種が常に身近にあるということで、それはよくも悪くも異文化交流とでもいうべきものが行われるということだ。ただし、黒人側から白人側に流れていくばかりで、白人側から黒人にわたされることは殆どない。なんの話かといえば音楽文化のことで、鬱陶しいことはあまり書きたくないが、搾取とは文化までをも含むということなのだ。

 

 ロックに限らず、ある芸能を、ある文化を語るとき、この視点を忘れてはならない。搾取する側は、単純な経済的要素だけではなく、搾取される側が営々と積み重ねてきた文化までを搾取する、ということだ。

 

 けれど俺は、そしてあなたは、白人の演奏するロックを愉しんでしまっている。場合によってはアイドル視して、憧れる。ここはひとつ、ニヒルな笑いをうかべて現状を受け容れてしまおう。原理主義を持ちだして、黒人音楽以外は悪魔の音楽であると騒ぐのは簡単だが、原理主義という画一を、つまり楽な方策を選択したとたんに、言い方は悪いが、あなたは痴呆化してしまう。

 

 芸能でも芸術でもいい。ある文化の搾取が大きく花ひらくことがあるのである。モディリアーニが黒人芸術から盗んだからといって、モディリアーニの芸術を否定するのはどこかおかしい。現出した作品がよいものであるならば、それは幸せな混血であるそういうことなのだ。表現には結果しかないともいえる。

 

 けれど私たちは、常に心のどこかにオリジナルに対する崇敬の念を隠しもっておくようにしよう。白人の演奏に胸を打たれたなら、ときにはそのオリジナルを辿ってみよう。」

花村萬月 俺のロック・ステディ 集英社新書

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花村のこんな批評性を、証明するために作られたような映画だ。

 

ビヨンセは見事な演技で、素晴らしい歌いっぷりだが、ほかのブルースに比べれば、あまりにも漂白されすぎていて、あるいは、非黒人の耳があまりにR&Bの音に慣れすぎてしまったせいか、他のミュージシャンのようなざらざらとした生命感を感じなかった。これはぼくだけのことかも知れない。)

 

ポピュラー音楽は、黒人の魂を盗むことで、奔放に咲き誇ったのだ。
(以上)

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